藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

政治と国。

天皇陛下への直訴が話題になっている。
皇室問題の話は、いつも「日本の古代」にまで話が遡り、結局自分には理解しにくいままになるのが常なのだが、皇族の政治利用と騒ぐ前に、今の日本の閉そくを揺さぶるような「一つのパフォーマンス」ととらえるくらいで十分なのではないかと思う。

識者の指摘するように、四月のよく分からない「主権回復式典」とかオリンピック誘致などよりはまともな気もするし、結局天皇の定義を変えずに「日本国の象徴」とするならその上でやっていいことと悪いこと、を明確にしていかねばこの種の議論は永遠になくならないのではないかと思う。

もっと言えば、補助金垂れ流しで、除染や汚染水問題がよほど深刻だったり、国の債務が限界まで膨らんでいたり、そんな事の方がよほど重要でマスコミは騒ぐ問題の次元がよほどズレていると思うのである。

日本の象徴なのだから、国益のために動いても良い、とするのかプロトコルを厳密に規定してそれこそ勝手に政治の場面に関わってもらってはいけない、とか(そもそも大臣や高級官僚は天皇が任命するのも不思議だが)またしても日本人の苦手な"土台の議論"の問題なのである。

この度の直訴がきっかけでそういう話になればいいけれど、そうなるにはまだちょっと波紋は弱い。
何度もこうした議論を重ねて行けば論点が絞られてくるのではないだろうか。

山本太郎議員の行動、識者の見方は 園遊会で陛下に手紙2013年11月2日08時01分

10月31日の園遊会で、天皇陛下に手紙を渡した山本太郎議員の行動について、明治時代に天皇に直訴した田中正造になぞらえる向きもある。元衆院議員の田中は1901年、足尾銅山(栃木県)の鉱毒に苦しむ農民を救おうと明治天皇の馬車に走り寄り、その場でとらえられた。

* 陛下に手紙「政治利用」か?

 「田中正造における憲法天皇」の論文がある熊本大の小松裕教授(日本近代思想史)は、(1)田中は直前に辞職し個人で直訴したが、山本氏は議員の立場を利用した(2)明治天皇には政治権力があったが、今の天皇は象徴で何かできる立場ではない、という点で「同一視できない」とみる。
 山本氏には「公人の立場を考えるべきだった」と指摘しつつ、政府内の批判にも違和感があるという。天皇陛下が出席した4月の主権回復式典を踏まえ、「政府の方こそ利用しようとしており、あれこれ言う資格はない」。
 一方、栃木県の市民大学田中正造大学」の坂原辰男代表(61)には、環境や住民を顧みず開発を続けた当時の政府と、福島で大きな被害を出しながら原発再稼働を進める現政権が重なる。「善悪の判断は難しいが、正造が生きていたら同じ行動をしたと思う」
     ◇
■批判、公平でない
 山口二郎・北海道大教授(政治学)の話 今の天皇、皇后のお二人は戦後民主主義平和憲法の守り手と言っていい。しかし主張したいことは市民社会の中で言い合うべきで、天皇の権威に依拠して思いを託そうと政治的な場面に引っ張り出すのは大変危うく、山本議員の行動は軽率だ。一方で、主権回復式典の天皇出席や五輪招致への皇族派遣など、安倍政権自体が皇室を大規模に政治利用してきた中、山本氏だけをたたくのは公平ではない。山本氏も国民が選んだ国会議員であり、「不敬」だから辞めろと言うのは、民主主義の否定だ。
■政治利用と言うには違和感
 明治学院大の原武史教授(政治思想史)は、「今回の行為を政治利用と言ってしまうことには違和感がある。警備の見直しについても議論されるなど大げさになっており、戦前の感覚がまだ残っていると感じる。政治利用というならば、主権回復の日の式典に天皇陛下を出席させたり、IOC総会で皇族に話をさせたりした方がよほど大きな問題だと感じる」と話した。
 原教授は自身のツイッターで、「山本太郎議員の『直訴』に対する反発の大きさを見ていると、江戸時代以来一貫する、直訴という行為そのものを極端に忌避してきたこの国の政治風土について改めて考えさせられる」ともつぶやいた。