藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

平和の原点

「敗因について一言いはしてくれ」。
日光にとどまっていた陛下に昭和天皇から手紙が届く。
皇国を信じすぎた国民が米英を侮り、精神論に傾いた軍人が科学を忘れた。
三種の神器と国民を守るため涙をのんだ、とつづられていた。

国家元首から子供への手紙、いや「次の元首」への手紙だろうか。
これほど短く、先の戦争を顕すテキストを自分は知らない。
しかも評者ではない、ご本人の言だというから重みが違う。

その後の陛下への教育のレベルもすごいが、またそれを研究している学者の存在も驚くものがある。

「organization(機構)」を使って文章を書くよう求められ、少年時代の陛下はこう回答した。
「Democracy is best organization(民主主義は最上の政治機構である)」

自分も含めた今の有権者
政治家。
官僚。
一体過去をどの程度理解できているのだろうか。

今の憲法論議とか立法とか。
政策とか。にはこういう深みは感じられない。
というか「こういうこと」を考えるのが日本人らしさなのではないだろうか。

象徴天皇、少年期の記憶が原点 「戦争ない時、知らない」

 8月15日。天皇陛下は例年と変わらず戦没者を追悼し、戦争を反省する言葉を述べられた。平和を願い、国民とともにある象徴像の原点は戦争の苦い記憶だ。昭和とつながった平成はもうすぐ終わる。次の時代、平和をどう受け継いでいくべきか。象徴天皇の歩みから考える。

1946年10月、少年時代の天皇陛下とバイニング夫人=AP

 陛下が近年、訪問を希望されている場所は戦時中に疎開した栃木県日光市だ。3度、日程が組まれたがいずれも体調不良などによりキャンセルに。直近の今年5月の予定も発熱で見送られた。

 側近の一人は「戦時中に厳しい体験をした日光は陛下にとって往時をしのぶ場所。今年の訪問取りやめは本当に残念だったようだ」。

 「戦争のない時を知らないで育ちました」(1999年、即位10年の記者会見)

 陛下の幼少時の記憶は3歳だった1937(昭和12)年から始まるという。日中戦争の発端となった盧溝橋事件があった年だ。45年8月15日の終戦時は11歳。日光で「玉音放送」を聞かれた。

 「敗因について一言いはしてくれ」。同年9月、日光にとどまっていた陛下に昭和天皇から手紙が届く。皇国を信じすぎた国民が米英を侮り、精神論に傾いた軍人が科学を忘れた。三種の神器と国民を守るため涙をのんだ、とつづられていた。

 「昭和天皇がどのような気持ちでこの時期を過ごしていらっしゃったのかと時々思うことがあります」(2003年の誕生日会見)

 即位後の20年間を戦時の国家元首として生きた昭和天皇。その死去とともに平成が始まったとき、日本経済は絶頂期にあった。陛下は昭和の前半と引き比べ、父親の心中をおもんばかる発言を何度もされている。

 1947年、日本国憲法が施行され天皇は主権者から「国民統合の象徴」になった。皇太子だった陛下への教育方針も大きく変わり、元慶応義塾塾長の小泉信三と米国人家庭教師のバイニング夫人が教育係に就いた。

 小泉を研究する山内慶太・慶応大教授は「小泉は新しい皇室のあり方を陛下自らがお考えになるための題材を提供した」と話す。

 50年4月、小泉が初めて臨んだご進講の覚書が残っている。「開戦に対して陛下(昭和天皇)に御責任がないとは申されぬ。それにも拘らず、民心が皇室をはなれず、況や之に背くといふ如きことの思ひも及ばざるは何故であるか」

 小泉は君主の人格や見識が国の政治に善くも悪くも影響すると説いた。福沢諭吉の「帝室論」と、英国王の伝記「ジョージ5世伝」を陛下と輪読。皇室や王は政治と一線を画すべきだという論旨が両著の共通点だ。

 ノンフィクション作家の保阪正康氏は「戦後民主主義下では天皇も自らそのありようを考えなければならないと導いたのが、小泉氏とバイニング夫人だった」という。

 バイニング夫人が課した英作文。「organization(機構)」を使って文章を書くよう求められ、少年時代の陛下はこう回答した。「Democracy is best organization(民主主義は最上の政治機構である)」

 4年間を陛下のそば近くで過ごしたバイニング夫人は「陛下の英作文には思想的内容があり、考えが暗示されていた」と回想している。