藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

所有と代償

*[ウェブ進化論]所有しない選択。
「所有vs自由」が実は性質的には相反するものなのだということを、昭和の人たちは知らなかった、いや気づかなかったのだろう。
みんなの価値観が、まるで「磁石の磁気」のように 一方向に向いていたのは、今考えてみれば少し滑稽にさえ思える。
「所有の煩わしさ」も「所有の楽しみの一つ」だというふうに理解をしていたのだろう。
別荘を持って維持管理に費用がかかるとか、何人も妾を囲って相手をするのが大変だ、という人はよく昭和の映画に出てくるが、今の若者からすれば「で、あなたは何がしたいの?」と問われてしまうのではないだろうか。
 
大金持ちの心境はともかく、自分自身の所有体験で思い出すのは車を持ったことだった。
みんなが車を持ちたいと考え、自分をめでたくその仲間入りをしたのだが、所有した嬉しさと、後から考えればそれに引っ張られていた自分の暮らしのことを思う。
ドライブに行くとか、車をきれいにするとか、自動車の税金を払うとか、どうしても「所有したそれ」に生活の一部分がとられてしまう。
そういう「煩わしさ」こそが所有の醍醐味なのだと言われればそうなのだけれど。
 
さらに人間関係でも、同性や異性と付き合うとか、同棲や結婚とかをすると、やはり「一人の時間」は減ってゆく。

"物や人間関係"をどんどん持ってゆくに従い、どんどん自分の何かが削られていくことになる。

そして一旦所有したものを「やめる」のは案外大変である。

蒐集した物たちへの愛着とか、人間関係とかはなかなかリセットしにくいものだ。

 
今の若い人があまりものを持たないのは、実は所有の楽しみは「所有しない自由さ」をそれほど上回るものでは無いことを知っているからではないだろうか。
 
「その維持費、いろんな意味で大変そうですね」と。