藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分のサイズ。

またもや糸井さんのブログより。

それにしても時事ニュースなどが直接は種ではなく、しかし日常の生活や外部世界で起こることを「仕組みとか原理」にたちどころに置き換えて思考する。
ということは、たぶん自分もそんな動機でブログ認めているのだけれど、なかなかできない芸当である。

糸井さんはたぶん一日にいくつも「そんな思考の種」を仕込めるのだろう。
自分の場合はせいぜい三日〜一週間に一つ。
なかなか「原理追求」というところにまで行きつかないのである。
それはともかく。

食事やら勉強やら娯楽やら仕事やらと、
生活のなかで名付けられ区分されている時間を、
ボーダレスにしてすべてを居間でやるというのが、
ぼくの態度だったわけだけれど、
どうやら、そのまま生きていくのはむつかしいようだ。
(中略) 
なんでもひと部屋でやりたいというのは、
ぼくのなかに身についたビンボー性というか、
下宿人気分のようなものなのかもしれない。

自分も長年「自分の適性空間」について考えていた。(のでこの記事に反応したのだろう)
自立して住んだ最初のアパートは1DKで快適だったが、間もなく二人暮らしをするようになると「私的空間」はなくなった。
さらに家族が増えたりすると、一人当たりの私的空間はどんどんなくなる。
そして引っ越しして5畳の部屋を獲得するも、それも間もなく落城。

結局それ以来、自分だけの別室を設えたりしながら今に至るのだけれど、感覚として確かに得たのは「広すぎる空間はまったく持て余す」ということである。
「狭い。狭い。と思っていた頃には思いもよらないけれど。
よく何十畳もあるLDKと、バルコニーとベッドルームと、というような設えがあるけれど。
(自分は以前一人で70?位のところに住んでいたけれど、まったく使いこなせずスカスカだった。)
第一まともな家具を配置しようとしても、費用もかかるし、しかも使わないし、さらに掃除も行き届かない。

友人が何人も来たときだけ、ちょっとメリットがあるけれど年に一回もないそんなイベントのために到底キープする気にはならない。
つまり「一人生活の快適サイズ」というのは意外に小さなものなのだと思う。
ざっくりと10畳あれば。
さらに寝るのに2畳あれば。
これくらいが自分には最適の空間のようである。
二十歳のころは四畳一間、共同トイレでも楽しく生活してきたが、
結局10畳の「私的空間」が自分にとっては適正で暮らしやすい、ということのようである。
今はこの「最高の10畳」を追求して最高の住み家を見つけたいと思っている。

いま、家のなかが「改編」されつつある。
リーダーは当然ワタクシ‥‥ではなく、家人である。
かつて橋本治は言った。
「家とは、妻を女主人とするペンションである」と。
ずいぶん前に聞いたが、いまでも感心している。

女主人の采配で、さまざまな設えが整理されていく。
どれとどれは使わないのだから始末すべきである、とか、
ここをこうするとこうなるから、こうしようとか、
ぼくには考えられない種類の計画性と実行力で、
さまざまな改革が進められていく。
幸い、このペンションの女主人には、
暴力性とか権力志向はないので、
「これこれこの件については、如何しますか?」
と、ぼくの判断をいったん尊重しつつ、
すべてを処分する方向へ誘っていくという方法だ。
「鳴かぬなら」の喩えで言えば信長や秀吉ではない。
きびきびした徳川家康のような個性かもしれない。
「鳴くまで待つ」というためのセッティングが達者だ。
 
食事やら勉強やら娯楽やら仕事やらと、
生活のなかで名付けられ区分されている時間を、
ボーダレスにしてすべてを居間でやるというのが、
ぼくの態度だったわけだけれど、
どうやら、そのまま生きていくのはむつかしいようだ。
そういえば、入浴中に読書まではできるけれど、
それを居間でやっているわけでもないし、
いくら曖昧ではあっても、
さまざまなものごとを多少は分けてきたのだ。
 
なんでもひと部屋でやりたいというのは、
ぼくのなかに身についたビンボー性というか、
下宿人気分のようなものなのかもしれない。
多少、人や動物などの気配のあるところにいるほうが、
リラックスできるような気もしている。
単純に、少々だが、さみしがりなのかもしれない。 
この、ペンションの「改編」によって、
インターネットに常時接続されている暮らしからも、
ちょっと離れるかもしれない、ぼくの意志で。
‥‥いや、ほんとのところはわからないですけどさ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
思えば、12年前には犬のいない暮らしをしてたっけなぁ。