藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分は変わっているか

蓮の花が沼に咲くのは、「ある日突然」だと人は言うけれど、実は毎日「二乗」で咲いている。
ある日、急に「倍になった水面」を見て急に変化が起こったことを悟る、というのは人の世の常らしい。
糸井さんのブログより。

じぶんを「拙者」とか言う人はいない。
 たくさんいたとは思うが、でも、じわじわいなくなった。
 頭にちょんまげを結っている人も、いない。
 これも、たくさんいたけれど、いまは、ほぼいない。

今定点的に時代を観測すれば、やはり「じわじわ」変わっているのに違いない。
戦後60年が経とうとしているが、もう戦中を知っている人の方が少ない。
高度成長期の主役も引退している。
団塊の世代ももう現役の人は少ない。
そうするともう五十代の人が「価値観形成の主役」のようになってきている。

時代というか、時の流れをつかむのは難しい。
あっという間に自分も年を取っているし、今の若い人も多分そうだろう。
「目には見えない大河の流れのように」時は流れるのだから、自分が自分なりの"定点"を見つけて、自分で自分とか周囲を相対的に感じるしかないと思う。

「青年老い易く」だからどこかに"杭"を打って見ていないと自分を見失う。
じわじわ変わってきているその「じわじわ」をどれだけ繊細に感じることができるか、というのは自分が自分の人生を消化する上ではぜひ持っていたい感覚ではないだろうか。

50-100年の限られた時間の出来事だから、それをどうこなしてゆくのか、自分に与えられた「限りなく自由で自己責任なテーマ」なのではないだろうか。
果たして自分は「じわじわ」変わっているだろうか。

 
・なんでも、じわじわじわじわ変わってきている。
 あんまりじわじわだから、気がつかないことも多いが、
 ものすごくたくさんのことが、実は変わってきている。
 そして、いまも、これから先に向って変わっている。
 
 いま、冗談で言ってる人を別として、
 じぶんを「拙者」とか言う人はいない。
 たくさんいたとは思うが、でも、じわじわいなくなった。
 頭にちょんまげを結っている人も、いない。
 これも、たくさんいたけれど、いまは、ほぼいない。
 
 着物を着ている人も、昔はほぼ全員だったろうが、
 じわじわじわじわ変わってきていて、
 とても少なくなっている。
 着物が当たり前でない分だけ、
 それまでとは別の意味を持ったかもしれない。
 
 下駄を履いて歩いている人も、じわじわといなくなった。
 着物と同じように、趣味や仕事で履いている人が多い。
 このへんまでは、いわゆる時代劇のイメージと、
 いまの時代のイメージを比べて、
 いつのまにか変わったものだなぁと言ってるだけだ。
 
 だけど、もっと近い過去と、いまとの間にも、
 じわじわと、いつのまにか変わっていることはある。
 当時を知らない人は眉をひそめるかもしれないが、
 ある時代までの職場や遊び場では、
 目が痛くなるほど、タバコの煙がもくもくしていた。
 いま、そんな場所はほとんどないと思う。
 じわじわじわじわ、すっかり変わったのだ。
 女性のことを見下すようなことを言う男性も、
 実際に、いくらでもというくらいたくさんいた。
 いま、そんな態度をあらわす男はおそらく少ないだろう。
 表面だけと言われるかもしれないが、変わっていたのだ。

 いいことも、わるいこともなのだろうけれど、
 変わらないと思われていることが、実は変わってもいる。
 おおぜいが、そのほうが「都合がいい」と思えることは、
 あんがい、じわじわだけれど、変わるものなのだ。
 すぐを急ぐと、逆に、おおぜいの都合がつかなくなる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
5年のじわじわも10年のじわじわも100年のじわじわもある。