糸井さんのブログよりお金の価値について。
このエントリーを読んでハタと思いついたこと。
お金の価値は変わる。
使いたい目的によっては万能感すらあるけれど、そのままでは動かない。
これまで何度かお金持ちと言われる人に会ったが、いくつかのタイプに分かれていた。
1.金儲けそのものに興味がある人。
2.儲けたお金を何かに使いたい(から稼ごうとす)人。
3.お金そのものに興味のない人。
きれいにどれかにだけ嵌るというわけではないが、そんな風に感じた。
1.の人には「そのお金はどう使うのですか」と聞いても明確な返答はなかった。
2.の人は目的ありき、なんだけれどちゃんとそのために稼ぐ方法を編み出せる人だった。こういう人を本当の事業家というのだろうと思う。
3.の人は若くしてIPOした人なんかに多く、自分が(個人レベルで)好きなことをするとか、あるいはこれからやるべきことを探している感じで、本当に「儲けることそのもの」には興味がなく、脂ぎっていない感じ。
自分の同世代より上の人には圧倒的に1.タイプの人が多かった。
稼ぐだけでも大変なのに、その後のことをどうこう言っても始まらぬ、と言いたげで、それはそれで説得力を感じたものである。
生きていく分をきちんと稼ぎ続けるだけで、それは大変だもんね。
けれど稼いだお金の行き場がない人も沢山いた。
妙に高級品を買ってみたり、豪邸に住んでみたり、けれど何か所在なさげなところもあり・・・あまり生き方に哲学を感じなかったのである。(つづく)
ぼくは、何度か「わらしべ長者」のことを言ったと思う。
落語の「鼠穴」も同じなんだけれど、
最初の「わらしべ」がなかったら、
なんにもはじまらないっていうことだ。いま、『ゼロ・トゥー・ワン』の2度目を読んでいる。
この本の最初にして、唯一とも言っていい問いかけ、
「賛成する人がほとんどいない、
大切な真実はなんだろう?」について、まだ考えている。
その答えのひとつを、ぼくは言ってみたくなった。
経済の学問のある人には、笑われるかもしれないが、
それは、こういうものだ。
「100円のりんごがあるとき、
100円よりもりんごのほうが価値がある」
おそらく、一般的には、逆に思われているのではないか。
りんごは、要らないときには価値がないとされるし、
りんごを求めていない人とはなにも交換できない。
しかし、100円は、いつでも
りんごを含むさまざまなものやサービスと交換できる。
だから、たぶん、りんごがほしい以外の人は、
いつでもなんにでも交換できる100円を選ぶだろう。
でも、りんごのほうが価値があると、ぼくは言いたい。
そっちのほうが真実なのだと、ぼくは思っている。
説明をしてみよう。
100円がここにあったときに、
そのままで200円に交換してくれる人はいない。
しかし、100円のりんごは、
100円以上の価値を感じてくれる人との間なら、
120円で買ってもらえるのだ。
さらに、100円のりんごは、
200円の鉛筆と交換してもらえる可能性がある。
「わらしべ長者」をスタートさせるためには、
お金からお金への展開じゃ転がっていかないのだ。
お金は、ほんとうに記号なので、100=100なのだが、
りんごは、誰にでもではないけれど、
100=100+αというマジックを見せてくれるのだ。
だから、ぼくらは100円ではなく、りんごをつくるのだ。
‥‥っていう「大切な真実」なんだけど、どうだろう?今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
お金は、いつか「仕事」をしないかぎりは、ただの数字だ。