藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

改めて分かること。

今まで生きてきて何度も失敗はしてきたけれど、それでも何か新しいことに興味が向くというのは人の本性に何かそういった特性があるのに違いない。
そして数ある失敗を思い返すと何かはっきりとしたものがあるような気がしてきた。
やる前から失敗するに違いない、というようなことは当たり前だがやらない。
何となく出来そうな、という不確実な感じがえいっ、と背中を後押しするのである。
そして失敗して後から考える。
何が原因か。

【致命的】(ちめい−てき)
[形動]
1 命にかかわるさま。命を失いかねないさま。「―な傷を負う」
2 損害や失敗などが、取りかえしがつかないほど大きいさま。「―な痛手を受ける」「―欠陥」

後から振り返ってみて致命的な欠点があったと。
そしてそれに気付かずに手を付けてしまったこと。
もしそれに気づいたらなかなかの成果である。
「それ」は二度と同じ轍を踏まないための貴重な教訓である。
たちが悪いのは「何が失敗だったのかどうかが分からない」手合いである。
それこそそれほどの確信もなく、しかし勝算もなく物事を始めてしまうということがままある。
大体「そういうものを探している自分」がいるから、「そういうもの」に手を出してしまう訳なのだが「これが間違いのもとだった」というものを見つけられずに過ぎてしまうと、またぞろ似たような過ちを繰り返すことがある。

また失敗を回顧する時によろしくないのが自分への「日和」である。
あれはたまたま時期が熟していなかっただけ。とか
価格設定さえ間違わなければライバルには負けなかった。とか自分なりの「傷まない理屈」は自分に優しいが、再び同様の躓きをもたらしたりするものだ。
それはともかく。

何かに挑む時に「致命的な欠点」がはっきりと見えるとする。
するともしその致命的な欠点が克服されたらどうなるか。

その後はかなり上手くいく可能性が高いのじゃないだろうか。
よく「ダメだしをする」というけれど、そんな中でも「このプロジェクトが上手く行かない決定的なこと」を考えてみると、案外相手の姿が見えてくるものだ。
「致命的な欠点」は克服すれば成功への一本道なのかもしれない。
そんな風にこれからのことを考えてみれば、ちょっとわくわくしながら過ごせそうである。
致命的な欠点を探して、それを何とかする。というのはちょっとしたゲームなのに違いない。
過去の回想もこれからのこともそう考えるとどこか楽しい。