藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

顔づくり。


道行く人の表情を見る。
綺麗な女性を見るのは楽しいけれど、むしろそういう動機ではなく。
自分の表情を気にする年代になったのだろう。
これまで自分が「どんな表情のやつか」についてはあまり考えてこなかった。
自分の表情って案外自分ではわかりにくい。
よく「お疲れですね」とか「顔色が良くない」と言われると驚くけれど、毎日見ているだけにその日の様子とか、さらに「経年変化」については気付かないものである。

若いころの写真を見るとちょっと驚くけど、それでも他人ほどではない。
半世紀も生きてきて、さて自分ってどんな顔つきなのか。
いじましそう。
意地悪そう。
普通?
楽しそう。
幸せそう。
厳しそう。
変なやつ。

どんな自分か、ということの結果がいよいよ気になってきているらしい。
何十年もの影響だけに、今一瞬だけ付け焼刃でニコッとしてもだめだ。
そのあとすぐに「本物」が顔を出す。(て顔だけど)
よくベートーベンの表情が「人生の深い悩みが刻み込まれた」と表現されるけれど、これからの自分はどんな顔になってゆくのだろう。

なんて考えていたのだが、明るいにせよ暗いにせよ、せめて「つるん」とした何も表わさないような顔にはならないようにしないとなあ、という思いに至ったのだった。

・若いころ、コピーライターの講座でだったと思うけど、
 「電車のなかで目の前にいる人たちのことを想像する。
  どこから乗ってどこへ行くのか。
  どういう職業で、さっきまでなにがあったのか」
 というようなことを、勝手に考えることが、
 いいコピーを書けるようになる練習だと教えられた。
 これは、コピーライターになるためというより、
 なにをする人にとっても、いい練習になると思う。
 どこから、どこまでを想像できるか。
 次々になにか気づいては、それに答えていく。
 それを何度も何度もやっているうちに、
 じぶんの想像(というか妄想かな)が、
 あんがい凡庸であると気づいたり、
 じぶんのこころに潜んでいる悪意のかたまりを発見する。
 また、他の人が想像する「目の前にいるモデル」と、
 じぶんの想像がまったくちがうことも知る。
 どういう人が想像しやすいのか、なんてことも思うし、
 「人はみんなちがう」ということについて疑ったり、
 どういうことが同じなのか考えたくなる。
 もともと無意識で、みんながやっていることを、
 意識的にたくさんやることが、練習になるのだ。
 想像を口に出さないかぎりは、迷惑もかからず、
 いくら遊んでいても無料のゲームである。

 いつのまにか、その練習はあんまりしなくなったけれど、
 別の練習問題を解きたがるようになっていた。
 いろんなモノをながめたり、さまざまな店に入って、
 あるいはニュースや相談事を元にして、
 「じぶんならどうするだろう」と考えるのだ。
 もっと繁盛させるには、なにか惜しい部分をどうするか、
 じぶんが批判している問題を
 じぶんだったらどうすればよかったというのか、
 日々の世間は練習問題だらけなのだ。
 これは電車のなかの妄想よりもずっとむつかしい。
 解決の第一段階くらいはシロウト考えで思いついても、
 多少でも本気で考え続けたら、
 実は次の段階の答えが出せなかったりする。
 流行らない食堂のことひとつでも、
 ほんとうに「よい道」を行かせるのは大変なことだ。
 練習問題を次々に解こうとすることは、
 じぶんの「あんがい情けないこと」を知ることになる。
 いやいや、だからこそ、練習なのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんのことだって、解決できる問題って少ないもんねぇ。