藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ゴール観(1)。


糸井さんのブログより。

じぶんが若いときに、
 どれくらい考えの足りない人間だったか…

冒頭の二行だけではっとした。

子供のころは。
運動神経のよさがゴールだと思っていた。
(自分は良くなかったのでいっちょ前に挫折感を感じていた)

学生時代は。
模試の成績がゴールだと思っていた。
学歴がゴールだと思っていた。
就職がゴールだと思っていた。

社会人になってからは。
人事評価がゴールだと思っていた。
出世がゴールだと思っていた。

独立してからは。
起業がゴールだと思っていた。
売上げがゴールだと思っていた。
利益がゴールだと思っていた。
継続がゴールだと思っていた。
新規事業がゴールだと思っていた。

年を取ることの良さとは、若い人の動機とか純粋さとか愚かさが、透き通って見えることに違いない。

若い時は自信過剰で恐れ知らずで無謀だった、とは思うのだが、そういう今の自分だって結構な暴走族じゃないかという気もする。(つづく)

・じぶんが若いときに、
 どれくらい考えの足りない人間だったか、
 けっこう小出しにして話してきているつもりだけれど、
 まだまだ出していることの何倍も言わないことがある。
 ほんとうに、ほんとうに、バカだったのだ。

 むろん、いまがおりこうなのではない。
 そんなことは言われなくたってわかっている。
 しかし、それでも、だ。
 若いときの考えの足りなさにくらべたら、
 ずいぶんとましになったと言えそうな気がする。

 若いときの考えの足りなさ、思いの浅さというのは、
 お笑いの人たちが芸にして語っているような
 聞いていておもしろいようなものとは、
 残念ながらずいぶんちがう。
 彼らの芸としての失敗ばなしは、
 見苦しさやバカバカしさも含めて、
 いちおう「絵」になるように磨いてあるものだ。

 しかし、ぼくを含めて、
 大人を長い間やってきている人が、
 ことばにしにくいままにしているバカさというのは、
 笑われるようなところに落ち着けられるものではなく、
 もっと、なんというか人間の恥ずかしさに関わるものだ。
 それは、きっと人間が誰しも持っているような
 普遍的とも言える恥ずかしさなのだけれど、
 他の人も持っているからといって、
 ぺらぺらと語れるようなものでもない。

 若い時分の、言いにくいようなバカさ恥ずかしさは、
 もう昔のことだからと、高らかに語ることではない。
 そんなことができるほどの、いまを生きているか?
 じぶん自身に、そのくらいは問いかけるべきだろう。
 考えの足りなかったこと、恥ずかしかったことは、
 告白することで帳消しにできるものではない。
 そうでないように生きるしか、取り返すやり方はない。
 ぼくは、そう思っている。
 「そうでないように生きる」というのは、
 おそらく、人ができるたったひとつの方法なのだと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
静かに恥の飴玉をなめてとかしながら、笑って生きたいね。