じぶんが若いときに、
どれくらい考えの足りない人間だったか…
冒頭の二行だけではっとした。
子供のころは。
運動神経のよさがゴールだと思っていた。
(自分は良くなかったのでいっちょ前に挫折感を感じていた)
学生時代は。
模試の成績がゴールだと思っていた。
学歴がゴールだと思っていた。
就職がゴールだと思っていた。
社会人になってからは。
人事評価がゴールだと思っていた。
出世がゴールだと思っていた。
独立してからは。
起業がゴールだと思っていた。
売上げがゴールだと思っていた。
利益がゴールだと思っていた。
継続がゴールだと思っていた。
新規事業がゴールだと思っていた。
年を取ることの良さとは、若い人の動機とか純粋さとか愚かさが、透き通って見えることに違いない。
若い時は自信過剰で恐れ知らずで無謀だった、とは思うのだが、そういう今の自分だって結構な暴走族じゃないかという気もする。(つづく)
・じぶんが若いときに、
どれくらい考えの足りない人間だったか、
けっこう小出しにして話してきているつもりだけれど、
まだまだ出していることの何倍も言わないことがある。
ほんとうに、ほんとうに、バカだったのだ。むろん、いまがおりこうなのではない。
そんなことは言われなくたってわかっている。
しかし、それでも、だ。
若いときの考えの足りなさにくらべたら、
ずいぶんとましになったと言えそうな気がする。若いときの考えの足りなさ、思いの浅さというのは、
お笑いの人たちが芸にして語っているような
聞いていておもしろいようなものとは、
残念ながらずいぶんちがう。
彼らの芸としての失敗ばなしは、
見苦しさやバカバカしさも含めて、
いちおう「絵」になるように磨いてあるものだ。しかし、ぼくを含めて、
大人を長い間やってきている人が、
ことばにしにくいままにしているバカさというのは、
笑われるようなところに落ち着けられるものではなく、
もっと、なんというか人間の恥ずかしさに関わるものだ。
それは、きっと人間が誰しも持っているような
普遍的とも言える恥ずかしさなのだけれど、
他の人も持っているからといって、
ぺらぺらと語れるようなものでもない。若い時分の、言いにくいようなバカさ恥ずかしさは、
もう昔のことだからと、高らかに語ることではない。
そんなことができるほどの、いまを生きているか?
じぶん自身に、そのくらいは問いかけるべきだろう。
考えの足りなかったこと、恥ずかしかったことは、
告白することで帳消しにできるものではない。
そうでないように生きるしか、取り返すやり方はない。
ぼくは、そう思っている。
「そうでないように生きる」というのは、
おそらく、人ができるたったひとつの方法なのだと思う。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
静かに恥の飴玉をなめてとかしながら、笑って生きたいね。