藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ゴール観(2)。

糸井さんのブログより。

若ければ若気の至り。
年を取れば年寄りの冷や水
どうも日本には「挑戦を諌める気質」があるようである。
それはともかく。

今の自分には「それこそが目的」と思える存在でも、「実はそれからが大事なのだ」という例は引きも切らない。
先日旧友の女性から聞いた「彼との結婚がゴールだったのに」ということばは切実に響いたし、また明らかに「それはゴールじゃなかったんだな」とも感じた。
訳知り顔にそんなことは言えなかったけれど。

ゴールこそが、実は「そこからが別世界への始まりであること」が多いということも、経験を積んでくると実感として分かってくることの一つだ。
さらに。

そして、限りなく成長してゆく人の様子を見れば、実は自分の内面に「ゴールなどない」という雰囲気の人が多い。
ゴールはゴールなのだが、美酒に酔わずそのまま通過点のように「次に向かっている」ではないか。

"ゴールこそが全て"という視点になってしまえば「その先」が見えなくなる。
逆に「その先しか見ていない人」にとっては、通過点のゴールのことには関心があまりないのだろう。
ゴールを目指しながら、目線はその先にあることって複眼的で重要な視点に違いない。
自分にとっての今のゴール。
その先の将来のゴールらしきもの。
さらにその先には何か見えるだろうか。
眼前に海原は続く。

・じぶんが若いときに、
 どれくらい考えの足りない人間だったか、
 けっこう小出しにして話してきているつもりだけれど、
 まだまだ出していることの何倍も言わないことがある。
 ほんとうに、ほんとうに、バカだったのだ。

 むろん、いまがおりこうなのではない。
 そんなことは言われなくたってわかっている。
 しかし、それでも、だ。
 若いときの考えの足りなさにくらべたら、
 ずいぶんとましになったと言えそうな気がする。

 若いときの考えの足りなさ、思いの浅さというのは、
 お笑いの人たちが芸にして語っているような
 聞いていておもしろいようなものとは、
 残念ながらずいぶんちがう。
 彼らの芸としての失敗ばなしは、
 見苦しさやバカバカしさも含めて、
 いちおう「絵」になるように磨いてあるものだ。

 しかし、ぼくを含めて、
 大人を長い間やってきている人が、
 ことばにしにくいままにしているバカさというのは、
 笑われるようなところに落ち着けられるものではなく、
 もっと、なんというか人間の恥ずかしさに関わるものだ。
 それは、きっと人間が誰しも持っているような
 普遍的とも言える恥ずかしさなのだけれど、
 他の人も持っているからといって、
 ぺらぺらと語れるようなものでもない。

 若い時分の、言いにくいようなバカさ恥ずかしさは、
 もう昔のことだからと、高らかに語ることではない。
 そんなことができるほどの、いまを生きているか?
 じぶん自身に、そのくらいは問いかけるべきだろう。
 考えの足りなかったこと、恥ずかしかったことは、
 告白することで帳消しにできるものではない。
 そうでないように生きるしか、取り返すやり方はない。
 ぼくは、そう思っている。
 「そうでないように生きる」というのは、
 おそらく、人ができるたったひとつの方法なのだと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
静かに恥の飴玉をなめてとかしながら、笑って生きたいね。