糸井さんのブログより。
若ければ若気の至り。
年を取れば年寄りの冷や水。
どうも日本には「挑戦を諌める気質」があるようである。
それはともかく。
今の自分には「それこそが目的」と思える存在でも、「実はそれからが大事なのだ」という例は引きも切らない。
先日旧友の女性から聞いた「彼との結婚がゴールだったのに」ということばは切実に響いたし、また明らかに「それはゴールじゃなかったんだな」とも感じた。
訳知り顔にそんなことは言えなかったけれど。
ゴールこそが、実は「そこからが別世界への始まりであること」が多いということも、経験を積んでくると実感として分かってくることの一つだ。
さらに。
そして、限りなく成長してゆく人の様子を見れば、実は自分の内面に「ゴールなどない」という雰囲気の人が多い。
ゴールはゴールなのだが、美酒に酔わずそのまま通過点のように「次に向かっている」ではないか。
"ゴールこそが全て"という視点になってしまえば「その先」が見えなくなる。
逆に「その先しか見ていない人」にとっては、通過点のゴールのことには関心があまりないのだろう。
ゴールを目指しながら、目線はその先にあることって複眼的で重要な視点に違いない。
自分にとっての今のゴール。
その先の将来のゴールらしきもの。
さらにその先には何か見えるだろうか。
眼前に海原は続く。
・じぶんが若いときに、
どれくらい考えの足りない人間だったか、
けっこう小出しにして話してきているつもりだけれど、
まだまだ出していることの何倍も言わないことがある。
ほんとうに、ほんとうに、バカだったのだ。むろん、いまがおりこうなのではない。
そんなことは言われなくたってわかっている。
しかし、それでも、だ。
若いときの考えの足りなさにくらべたら、
ずいぶんとましになったと言えそうな気がする。若いときの考えの足りなさ、思いの浅さというのは、
お笑いの人たちが芸にして語っているような
聞いていておもしろいようなものとは、
残念ながらずいぶんちがう。
彼らの芸としての失敗ばなしは、
見苦しさやバカバカしさも含めて、
いちおう「絵」になるように磨いてあるものだ。しかし、ぼくを含めて、
大人を長い間やってきている人が、
ことばにしにくいままにしているバカさというのは、
笑われるようなところに落ち着けられるものではなく、
もっと、なんというか人間の恥ずかしさに関わるものだ。
それは、きっと人間が誰しも持っているような
普遍的とも言える恥ずかしさなのだけれど、
他の人も持っているからといって、
ぺらぺらと語れるようなものでもない。若い時分の、言いにくいようなバカさ恥ずかしさは、
もう昔のことだからと、高らかに語ることではない。
そんなことができるほどの、いまを生きているか?
じぶん自身に、そのくらいは問いかけるべきだろう。
考えの足りなかったこと、恥ずかしかったことは、
告白することで帳消しにできるものではない。
そうでないように生きるしか、取り返すやり方はない。
ぼくは、そう思っている。
「そうでないように生きる」というのは、
おそらく、人ができるたったひとつの方法なのだと思う。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
静かに恥の飴玉をなめてとかしながら、笑って生きたいね。