藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分ほどまともな奴はいないという幻想。

自分は過去に失敗もしているし、全然完全ではない。
けれど、自分ほどまともな奴はいないというか、自分の判断は正しい、とどこかで絶対視している。
だってそれがなくなったら自分は立っていられないだろうから。

時には自分を疑い、自分の判断を懐疑したりするけれど、それでも自分は自分である。
自分が無くなっては人に意見も言えないし仕事もできないだろう。
人はそういう自己否定の矛盾を抱えることのできる稀な生き物なのかもしれない。

といいつつ、実はウィルスとか植物とかも「人の分かる言葉では口にはしないけれど」同様の自己矛盾をもっているのかもしれない。
自分自身を計るために他人や外界と自分を比べたり、また自己否定をしてみたりして「相対的な自分」を何とか分かろうとしている。
ということは自分では自分を見ることってなかなかできないということではないか。
鏡に映る姿を見たり、また他人の意見を聞いたりして「反射像」を見ることで、ようやく自分の認識ができるとか。
「自分を計る物差し」があったとして、結局その物差しで計った"目盛り"を自分と比べているだけだ。
自分単独で自分自身を認識できないのが自分なのだろうか。
と、いろいろ考えてみたが「外部との対比」で自分を知ろうとするのは、実はとても自然で賢い方法なのではないかとも思う。

自分を計る目盛りも何もかも「すべて自分で規定する」というのはある意味危険で怖い行為だ。
なにか狂気に走らないためにも、いつも「外部と自分」を気にするのは人間同士が共存するためのごく自然な性質なのだと思えば少し安心する。
さて。けれど本当の自分を自分で見るにはどうしたらいいのだろう。
やっぱり何かに自分を計測して記録して、それを見るしかないのだろうか。