藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

価値観の画一化。

日本の特徴はほぼこれではないだろうか。
八百万の神などというけれど、割と単一の価値観とか風習に支配されやすい。
糸井さんのブログより。

「新しい」を追いかけているだけなら、たぶん大丈夫。
「古い」に対してあえて敵のようにあつかい出したら、
あとはもう、「新しい地獄」を彷徨うしかなくなる。

「もっと新しく」「もっと若く」「最儲ける」。
最終目的地を定めずに、その間のプロセスが「目的そのもの」になってしまうことを自己目的化という。
まあ憑き物に取り憑かれた状態だ。
勝ち組、負け組という分類もこの類である。
「本来の目的とか、オリジナルな価値観とか」を失って周囲の流れに乗ってしまうとこうした魔物に憑依されてしまう。
政治の世界とか官僚とか、もちろん一般の企業にもたくさんいる。

糸井さんの言うように「何らか周囲や相手を否定し出したら」、魔物に憑依されている印ではないだろうか。
周囲と自分を比べ、自分の実体よりも「周囲との関係が主たる目盛りになる」というのは完全に「自己」がなくなっている。
社会に出ても案外この「周囲比較主義者」は多いから、むしろそういう声に流されず、冷静に自分を考えることがもっとも重要だと思う。
一たび「その世界」に入ってしまうと、なかなかそれが大変なことなのだ、ということも合わせて伝えておきたい。

ほぼ日刊イトイ新聞

・「新しい」というものの魅力はある。
 というか、「新しい」というのは魅力そのものである。
 ぼくも、新しいものに惹きつけられるし、
 新しいものをリリースするときのよろこびは大きい。

新しいものというのが、あんまり魅力的なものだから、
 「新しい」が「元気の出るおクスリ」のように、
 必死で求めるようになったり、ないと不安になったり、
 新しいということにがんじがらめになったりもする。

「新しい」そのものを、健康に受けとめられたり、
 たのしく消費できたり、栄養として採り入れるのはいい。
 だけど、「新しい」が麻薬のようになるのはよくない
 ‥‥その分岐点は、どこらへんにあるのだろうか?

ぼくは、たぶん「新しい」を追いかけ過ぎたり、
 「新しい」を探し出してちやほやされようとしたり、
 「新しい」を考えや行動の軸にしないできたように思う。
 ある時期のメディアの期待は、
 「新しい」を語る人としてのイトイだったのはわかるが、
 おっとっと、と、その舞台に乗らないようにしてきた。
 これは、かなり意識的にそうしてきたつもりのことだ。
 そのうえで、ぼくなりの考えがあってね。
 「新しい」ということに足をとられているかどうかの、
 分岐点は、とてもわかりやすい。
 「あれはもう古いね」と、言うか言わないか。
 他人や、かつて興味を持っていたものごとに対して、
 「古い」と馬鹿にして捨てるようになったら危ない。

「新しい」を追いかけているだけなら、たぶん大丈夫。
 「古い」に対してあえて敵のようにあつかい出したら、
 あとはもう、「新しい地獄」を彷徨うしかなくなる。
 例えば、なんども聞いた「ドラッカーなんて古いよ」、
 古いか新しいかに関係ない内容は、なかったのか?
 「源氏物語、古い」し、「マルクス、古い」し、
 「シェークスピア、古い」ことは、どうするのだ。
 だいたい、人間の脳も身体も、とんでもなく古いものが、
 ほとんど改良もされずに生き続けている。
 そして、「新しい」かたまりのような若い人も、
 十年もすれば、「古い」のゴミ箱に入れられるものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにかとドラッカーを読みたくなることの多い日々に書く。