藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

そして素直さ。


社会に出て、あまりに自分が知識もノウハウもないことに驚き、でも勉強はできるということを知ってから。
今度は社会に出ても勉強している人が多いことに驚いた。
みな他人から言われたか否かに関わらず勉強している。
けれど中でもすごいのは「自発的に」動いている人たちだった。

上昇志向に突き動かされている人もいたが、それってどちらかというと「成績優秀者志向(点取り主義)」みたいな感じがした。

それよりも「自分の成長を楽しむ」という種類の人たちは、悲壮感なく、楽しく勉強していることに驚いたのである。
後々それは「自分の人間的成長」とか「自己実現」と言われる種類のものだと知ったけれど、まあ感じたのは「ハードル越えとか他者との比較」を目標としているのでなく、勉強して自分の世界が広がることの喜び、という動機の力の圧倒的な強さだったのである。

そして社会は広いから、知識が圧倒的に豊富だとか、理論的思考が切れるとか、技術や数学に優れている人も多い。
けれどそうした「頭のいい人」が必ずしも伸びているとか、社会的に重要な仕事に就いているとか、さらには「楽しんで仕事をしている」と言う風には見えなかった。

何をもって優秀か、ということには議論があるだろうけれど、ともかくクレバーな人が必ずしも満足した状態にいるわけではない、ということもにもまた驚いたのである。

そして自分なりの今の答えは「+柔軟さ」。

知識やノウハウ、そして人生経験は得れば得るほど「自分の中に固定化した概念」を作ってゆく。
何人もの学生さんや技術者を面接していたり、取引先といろんな商談をしていたり、また異性と付き合っていたりすれば「自分なりの固定観念の形成」は当然のことである。
またそれが得難い自分の財産でもあるだろう。

けれど。
けれど。
その自分の中の"定まったもの"をいつでも「ぐにゃぐにゃにするような気持ち」が無いと、どんどん自分の世界は「視野が限定」されてしまう。
年寄りが頑固なのは、豊富な人生経験とともに「侵しがたい経験の枠組み」があるからだと思う。
視野が狭くなってしまうと、他の視野外のものへの興味も急速に薄れてゆくだろう。
いつまでも好奇心を持つ高齢者が若々しいのは、視野が広いからに他ならないのじゃないだろうか。

矛盾するようなことだけれど、自分が蓄えた知識とか思考の枠組み(ルール)をいつでも飛び越えた話ができること、というのが「どれだけ勉強し、経験してもさらに伸びる秘訣」ではないかと思っている。

どれほど一分野に長けて、その道の大家になろうともよそに視点が合わなくなったら、そこで伸びは終わるのではないだろうか。
ただ勉強し、蓄積するだけではなく、さらにそこまでの成果を自己否定するという「究極的な柔軟さ」こそが永続的な伸びをもたらすのじゃないかと思っている。

気を付けるべきは、知識、経験、ステレオタイプじゃないだろうか。