藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

目線のアングル。

『「どうなったらうれしいか」について、
 もうすっかりできているかのように語り、笑う。』

糸井さんのブログより。
先日言葉の力ということを書いていたのはこの記事がきっかけだった。
糸井重里という人は、そんなに詳しく知らないけれど、もとは広告とかコピーライターをしていたが、その人が起業し、色んなビジネスを主体的に手掛けるようになって「何か別ジャンル」を作り出したのではないかという気がする。
その分類の仕方も、ちょっと自分では自信がないのだけれど、どうも一般的な巷の企業論とか経営論とかとは違う匂いがするのである。
で、その本質は糸井さんの「言葉遣いの資質」なのではないかと思ったのである。

 「どうなったらうれしいか」について、
 もうすっかりできているかのように語り、笑う。
(中略)
 ものごとは、踊りのように動いていくものだ。

何かそのシーンをリアルに思い浮かべて、少し懐かしい感じもする。
けれどドキッとする。

なんにつけても、「ぜんぶ」は無理だ。
 これはだれにでも思い当たることだと思う。

という冒頭は誰しも共感できるフレーズだが、それが数行後に先の"三行の詩のように"変化している。
この記事の言わんとしていることにも共感するが、それよりも

「何でも全部を求めるな」ということ。
けれど夢の実現のためには『「どうなったらうれしいか」について、
 もうすっかりできているかのように語り、笑う。』というシーンは必須のような気がする。
ある意味ここはHow toだ。
そしてそれら"を描写する言葉が「 ものごとは、踊りのように動いていくものだ。 」

何かこの記事は、現実社会の仕事のノウハウという、実に現実的なテーマについて書いてあるのに、全体を読んでみると一片の詩を読んでいるような印象を受ける。
そして結局「踊りのように動いていく」ということについて、自分の実生活を観察してみたりしたくなる。
こういう表現は

・なんにつけても、「ぜんぶ」は無理だ。
 これはだれにでも思い当たることだと思う。

 「ぜんぶ」は無理だということは知っているのに、
 なんとなく、「ぜんぶ」を集めて並べようとする。
 集めたり並べたりしている間は、
 それだけをしていれば、なんかやったような気がする。

 こどものころの、夏休みの予定表をつくりたがる気持ち。
 あれもしたい、これもしよう、あれもこれもしなきゃ、
 そう思って、「ぜんぶ」を記しておきたくなる。
 へたをすると、文字の書きまちがいなんかあったら、
 一からつくり直しちゃうくらい熱心に予定表をつくる。
 息も絶え絶えになって、完成したころには、
 夏休みの貴重な時間が、もうずいぶんと費やされている。

 大人のやっていることも、似たようなものだ。
 「計画」をしっかりつくるのだという。
 もれのないように、ミスの起こりにくいように、
 後でやり直しになったらたいへんだから、
 慎重に、よく話しあって、しかも徹夜になったりして、
 「これで大丈夫」なんて言えはしないけど、完成させる。
 文句のつけようのない「計画」をつくることに、
 時間のほとんどを使っているような気さえする。
 みんながそうだというわけじゃないけど、
 そういうことに使われている時間が、
 世の中のとても多くの部分を占めているとは思うんだ。
 だって、そもそも「プレゼンテーション」ってものは、
 「計画」の、ごくごく始まりの部分だろう。
 「ぜんぶ」は無理なのだと知ってるはずなのに、こうだ。

 どことどこを、「後で考えればいい」と決断できるか。
 それこそが、なにかをやれている人たちの特長だ。
 ぼくの知っている「実行力」のある人は、
 とにかく「手を付ける」のが早い。
 人には会う、場所には行く、スケッチを描く。
 「どうなったらうれしいか」について、
 もうすっかりできているかのように語り、笑う。
 足りないところに気づいたら、また人に会い‥‥と。
 ものごとは、踊りのように動いていくものだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほんとにやる人っていうのは、とにかくすぐ人に会うよね。