藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

知っているか。

この歳になって何だか「分かっていること」と「知っているだけのこと」の差がとても気になっている。
昔は知ってるだけのことをあたかも、知っていたり「見ていたり」風に他人に吹聴していたものだが恥ずかしい。
知識と知恵と真理とかって自分でうまく律していないと暴走すると思う。

今は情報が特に多いから「何々らしいぞ」という小ネタも「何々だ」といつの間にか断定している自分がいたり。
さらにそんな知識の断片をつなぎ合わせてこねくり回して「マイ理論」にしたりしているとこりゃ害悪ですらある。

「知ってることを言おう」とするには、実は理性がいる。
 人間は、本能的に「つい知ったかぶりする」動物なのだ。

知ったかぶりをしたいのかどうかはともかく、本当に知ってるかどうかは自問していないと、自分で自分のことが分からなくなりそうだ。
結構な恐怖だと思う。

・仕事がらなのか、好奇心もあって、
 ほんとうにいろんな人に会ってきた。
 農業に関わる人だとか、工業的な技術を持ってる人、
 すばらしい料理をつくる人などなど、
 いわゆる象牙の塔の外にいる達人たちは、たくさんいる。
 その人が、まさしく心血を注いでつくってきたもの、
 じっくり考えてきたことは、ほんとうにすばらしい。
 
 ただ、けっこうな割合で、すばらしい街の専門家たちは、
 妙な方向に関心を向けはじめてしまうのだ。
 まじめな顔で、「宇宙の真理」を発見したとか言い出す。
 世界をつらぬく法則が見えたというようなことで、
 それについて熱心に説明をしてくれる。
 ぼくにも、ぜひ理解してほしいと、語ってくれるのだ。
 正直に言うが、もう、そういう次元に入っちゃったら、
 その人の話は、まったくおもしろくなくなる。
 ぼくは、「またか、残念だなぁ」という思いで、
 なるべくそういう話題に触れないようにして、
 やがては、専門分野にも行き詰まっていくその人と、
 だんだんと疎遠になっていく。
 
 「宇宙の真理」だの「世界の真実」だの、
 わかりたい気持ちは、わからないわけじゃない。
 だけど、そっちに行っちゃうのはだめなんだよね。
 物語のなかのゴータマシッタルダじゃないんだから。
 じぶんのずっと見つめてきた関心事の向こうに、
 なにかが見えるのはいいかもしれないけれど、
 宇宙やら世界やらを、俯瞰したくなっちゃいけねぇや。
 
 ただ、これの縮小版みたいな「全能のオレ」的気持ちは、
 タクシーの運転士さんから、街の酔っぱらいから、
 夕食のテレビの前のおとうさんから‥‥みんなにある。
 「それ、前から知ってたの?」と聞き返したくなるけど、
 人が、唐突に、なんだかすごいコメンテーターに
 変身してしまう現象は、わりにありふれた風景だ。
 もっとも、ま、本職の「コメンテーター」にしたって、
 あんまり知りもしないことについて、
 もっともらしく真剣そうに言ってるだけかもしれないし。
 「知ってることを言おう」とするには、実は理性がいる。
 人間は、本能的に「つい知ったかぶりする」動物なのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
確かなことだけ言おうとする人は、口数が少なくなりがち。