藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

紡ぐという魅力。

さて、音楽の作曲、演奏、アンサンブルの魅力はともかく。(どうやらその魔力は"複雑さの淵"にあるらしいという話。)
同様のことは「言葉」にも言えるのではないか。

例年ノーベル賞、特に文学賞の話題が出るたびに思うのだけれど、

他の医学、科学、政治などに比べて「文学賞」というのは誰がどう評価して審査するのか。実に難しい選考過程なのではないかと思う。

(最も科学系の審査も、結局このレベルになると"芸術性"のような観点が必要になってくるから、文学賞だけが取り立てて異質なわけでもない、と先日大学の先生に聞いた。学問ってさすがに奥が深い)
しかも多言語だし。

言葉で伝える。
言葉を交わす。
言葉を継ぐ。
言葉を繋ぐ。
言葉を紡ぐ。
紡いだ言葉で物語を作る。いや語るのか。

AIが難儀するのは「小説」と「料理」に違いない。
ふふふふ。

この「ふ」が「ふふ」でも「ふふふ」でも「ふふふふふ」でもなく「ふふふふ」なのが何故なのか、当分AIにはわかるまい。
それはともかく。

音楽以上にというか、音楽よりもよりはっきりした自己表現での創作が「テキスト」の性質なのだと思う。
けれど「テキストの意味ははっきりしている」とはいえ、その組み合わせの種類は無限に近い。

文末に「…ではなく」とつけるだけでそれまでの表現は真反対になる。
「…だろうか」とつけるとそれまでの舞台は全部宙に浮く。
「…だったのだ」となればそれで世界は確定する。
「…だったりして」なら結論を想像するのは読者になる。

文字の持つ宿命があるために、音楽以上に「読み手の想像力がじざいに働く」のが書物の魔力だろう。

文字も音楽も、誰にとっても身近なものだけに、それを紡げば巨大な作品になり、単語で使えば伝達の道具にもなる。
人の最大の発明は技術の発達とともに何か変わるだろうか。