藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

最後は音楽。

論語の「子曰(い)はく、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」。
言葉での感動(詩)や、社会における対人関係の正しいあり方(礼)だけでは人間は完成しない、最後は音楽だというのである。

最後は音楽に人生の拠り所を求める、というのはなんとも洒落ているというか、こなれたいい人生、という感じがするけれど、これほど近代化した今だから際立つ特徴なのだろう。
「詩」から「礼」に、そして「楽」に。
故人の寸鉄には時代を経ても全く切れ味の鈍らないものが多い。
「いい作品は古典にある」という話もある。
また近々に取り上げさせてもらいます。

春の音楽祭 元内閣府事務次官 松元崇

 東京・上野の春の音楽祭が13回目を迎えている。インターネットの会社(IIJ)の会長、鈴木幸一さんが、16年前に小澤征爾さんから日本でもオペラをやりましょうといわれて始めた音楽祭だ。金食い虫だと愚痴っぽく言いながら、音楽を語るときの鈴木さんの目は輝いている。好きこそものの上手なれというが、その造詣も友人関係も余人をもって到達し得ない域に達している。私など名前しか聞いたことがないムーティ(イタリアの指揮者)らともお友達。昨年の音楽祭でも来日したムーティとのレセプションでの様子などを見ていると、音楽家と過ごす時間が楽しくて仕方がないというオーラが伝わってくる。

 そこで思い出すのが論語の「子曰(い)はく、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」。言葉での感動(詩)や、社会における対人関係の正しいあり方(礼)だけでは人間は完成しない、最後は音楽だというのである。孔子は、斉の国の音楽を聴いたときには、3カ月間肉の味が分からなくなったほど感激した。自分でも、瑟(しつ)という琴を演奏し作詞作曲もしていたという。孔子といえば、十有五にして学に志し、しかつめらしい道徳論ばかり唱えたと思われがちだが、人間の原点を踏まえれば最後は「楽に成る」と説いていたのだ。

 私が好きなのは小学校で習った縦笛。あの素朴な音色がよい。かつては、ピアノはあまりにも表情豊かで好きでなかった。それが、最近はピアノにも親近感を感じるようになった。それで「楽に成」ったとも思えないが、いろいろな音楽番組を録画して楽しんでいる。数多くの演奏が、桜とともに上野の森に咲きそろう春の音楽祭が長く続くのは素晴らしいことだ。