藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

知識を使うのが知恵。


日経、プロムナードより。
詳しくは記事を読んでいただきたいが、小学生が学校で習ってきた知識と「それ以外」を話すくだりには「知識とは何か」を示唆する。
さらに。

1万年以上前の古代メソポタミアでは、羊を数えるために羊のための、油の量を数えるためには油専用の「トークン」という道具が使われていたという。

今、IT業界で使われている"トークン"という単位がメソポタミアの由来とは恐れ入った。
最新の「ワンタイム・トークン」が、実は万年以上を超えた比喩で使われている、というのは命名した人のセンスを感じずにいられない。
油の量を測る単位だけだったトークンは、果たしてこれからどんな単位として使われるのか、というのはなかなかにロマンのある話ではないだろうか。

知識は「それを得た途端」が一番みずみずしい。
だんだん使ううちに薄汚れてくると思う。(嘆)

素直な感性 森田真生

 縁あって6年前から、大阪のある小学校で年に2回、小学5、6年生に向けて数学の授業をさせてもらっている。今年は夏に絵本を出したこともあって、5、6年生だけでなく、1年生以上のすべての学年の子供たちに授業をすることになった。

 低学年の子供たちには、様々な時代と地域で使われていた数字の形をスライドで見せて「これは何だと思う?」などとやり取りをしながら、いま使われている算用数字のデザインが、いかに長い洗練の過程を経て実現したものであるかを話した。

 特に小学校低学年の子供たちに向けて授業をするのは初めてだったので、前日までとても不安だったが、子供たちはみんな元気よく反応してくれて、ダイナミックで対話的な楽しい授業になった。

 子供たちと触れ合っていると、いつも思わぬ発見がある。今回も、小学3、4年生向けの授業のときに、「算用数字はどこで生まれたと思う?」と質問をみんなに投げかけてみたところ、真っ先に手を挙げた3年生の男子が「樹から生まれた!」と自信満々に答えたのである。

 樹に数字が実るなんて、何と素敵(すてき)な発想だろう! と思わず感嘆してしまったけれど、「数字を生んだのは人間だ」と思っていないのはどうも彼だけではないようだった。

 「1、2、3、4……」と書くいまの算用数字のデザインは、実際にはインドでその原型が生まれた。それがアラビア世界を経由しておよそ1000年前にヨーロッパに伝わったのだ。私が予想していた答えは「インド」とか「日本」とか、どこかの国や地域の名前だったが、予想は見事に外れたのである。

 ちなみに、算用数字を用いた筆算の方法が日本でも普及し始めるのは、ようやく幕末から明治にかけてのことだ。それがたった150年ほど前の出来事であることを話すと、子供たちは「えええ!」と声を上げて驚いた。逆に、江戸時代の日本人は、数字を使ってすらすら計算するいまの子供の姿を見たら目を丸くするに違いない。かつて大きな数の計算は、算盤(そろばん)を使ってするものだった。数字は、あくまでその結果を記録するための道具だったのである。

 それにしても、新しいことを学んでいるときの子供の率直な反応は面白い。こんな笑い話がある。

 小学校から帰ってきた子供が母に、「ねえお母さん、今日学校で足し算を教わったよ! リンゴ2つとリンゴ3つを足すとリンゴ5つ。ミカン1つとミカン3つはミカン4つ」。得意気(とくいげ)にそう言う彼に、母は「偉いわねえ。じゃあバナナ2つとバナナ3つを足すといくつ?」と聞いた。すると、子供は困った顔で「バナナはまだ教わってない」と答えたというのだ。

 1万年以上前の古代メソポタミアでは、羊を数えるために羊のための、油の量を数えるためには油専用の「トークン」という道具が使われていたという。リンゴも、ミカンも、羊もバナナも、みな同じ記号で数えられるという認識に至るまでには、何千年にもわたる試行錯誤の歴史があった。「バナナはまだ教わってない」とうつむく子供は案外、知識に染まる前の人間の素直な感性を代弁しているのかもしれない。

 今度はどんな意外で愉快な子供の反応に出合えるだろうか。また来年、彼らに会うのが楽しみである。

(独立研究者)