藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間を感じる

*[次の世代に]人生の感覚。
先日、中学時代の友人たちとの久しぶりの飲み会の席にて。
「そういや昔、フジノの部屋の壁にでっかい字で『時間銀行はない!』て書いて貼ってあったなー。あれ爆笑したわ。」
なに爆笑してんねん。
でなんと。
中学時代にすでにそんな感覚を持っていた俺。
今よりよっぽど大人ですね。
しかしその後、時間銀行がないことを知りながら、私はどこをどうスベってきたのか…
 
光陰矢の如し。
中国の故事で、古すぎて出典は不明らしい。
人生40年時代にこの発想。
おそらく格言としては最古の部類に入るだろう。
 
さらにどうも人生はこれから「100年時代」になるらしい。
それでも光陰矢の如しか。
それでいいのか。
 
そう時間の使い方だ。
えらい先輩たち曰く、(戦争などの)事件や大病で「死」を覚悟すると、その後の人生が変わったと聞く。
これぞ自分たちの一番苦手な「相対感覚」だ。
今が健康で大病してなければ、「およそ永遠に人生は続く」かのごとく過ごしている。
でも平均寿命があと三十年しかないことは知っている。
そう「その30年」を相対的に捉えられないのだ。
こういう場合、やはり年表など作って無理やりにでも「自分の残り時間を可視化する」しかないと思う。
 
たかだか残り三十年。
一年×30回だ。
十年単位なら、たった3回。
それでお終いである。 
二十代の若者でも「あと6回」とか。
決して無限ではない。
味わって使わねば。