自己責任の原則
一つだけ選ぶならこれだ。(著者の意図に反するが)
習慣の名前は「主体性を発揮する」。
一文で表現する。
『あなたの身の周りに起こる〝あらゆる出来事〟は、諸条件の中からあなたが「自ら下した〝選択〟の結果」である。』
人は自分の「反応」を選択する力がある。というのが根拠となっている。
なんと。
自分の身の回りに起こる、事件、アクシデント、クレーム、批判…。
これらぜーんぶが、自分のせいだというのか。
多くを自分は
「環境のせい」
「相手のせい」
「運のせい」
「政治家のせい」
「国のせい」
「親のせい」
「妻子のせい」
「友人のせい」
「会社のせい」
「お天気のせい」
「自然のせい」
「お星さまのせい」
「しらないどこかの誰かのせい」
にして来なかったか?
事実、そう思えるものだってある、ではないか。
ある。
「今日は日が悪い」などと言うではないか。
(英語ではIt wasn’t my day.と言う。)
違うのか。
実は。
うう。それが、「主体性を発揮する」。
すべての結果は「自分の選択のしわざ」と位置づけ、外部に責を求めない。
とかく、自分の弱い心は〝ハンニン探し〟をし始める。
すべての犯人は自分か。
あすからの出来事だって、自分の「選択の結果」だ。
自分は、日々「選択しながら」生きているのだ、と改め、意識する。
だから、『自分がなんとかするのみ』。
日々の言葉をチェックしよ。
【反応的な言葉】
できない
どうしようもない
しなくちゃならない
生まれつきだ
あいつは頭にくる
そういうことが認められるわけはない
もし○○だったら
○○じゃないとできない
【主体的な言葉】
代替案を考えてみよう
ほかのやり方が選択できる
自分で自分の感情をコントロールする
効果的なプレゼンテーションをしよう
そうすることに決めた
選択する
○○の方がいい
私が○○する
「できないと言うな!」なんて本がある。
あれ、how toで「そうしろ」と言っている。違う。
私たちは「反応」を選択する力がある。
なので「できない」は×。言うなら「しない」だ。
この言葉に触れて、「武士(もののふ)の精神」を思い出す。
(グダグダ言わずに「ハラを斬れ」か。意味は少しズレるが。)
そのくらいの潔さ。
影響の輪と関心の輪
この後、著書では問題に対し
「実際にコントロールできるもの」→影響の輪
「できないもの」→関心の輪
に分類し、「影響の輪」の中にある物事に注力してあたり、その輪を「広げる」
という実践的な話になっている。
出来事にクヨクヨして「引きずる」タイプの人には、効果的な考え方。
が、ともかく。
「主体は自分にある」という精神そのもの、この一点を大事にしたい。
自分の「反応次第」で、自分の世界が変わるのだ。と常に銘じていたい。
わかっちゃいるが、完全にはできない、手ごわいテーマ。
そういうことか。
あるセミナーで主体性について講義していた時、ある男性が前に出てきてこう言い出した。
「先生の仰っていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。
例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりませんよ。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。
私は妻を愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか。」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね。」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるので、とても不安なんです。どうしたらいいのでしょうか。」と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ。」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「〝愛は動詞である。〟愛という気持ちは、愛という行動の結果に過ぎない。だから奥さんを愛しなさい。
奥さんに奉仕をしなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表しなさい。
奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」
(ref.7つの習慣p100より)
反応的に捉えると、「愛」はある気持ちの状態。
主体的には、動詞であり「具体的な行動」。
うむう。