藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

芸術家の矜持。


四十を過ぎ、芸術の深遠の淵に遭遇する度に、恐れ入る。


内田光子さんに「ナイト」の称号に伍する「デイム」が与えられるという。
エリザベス女王からの授与。


すごい誉れである。

ピアニスト内田光子さんに大英帝国デイム 英女王、直接授与へ
英政府は13日、6月恒例の叙勲名簿を発表、モーツァルトやベートーベンの演奏で世界的な評価を得ているピアニストの内田光子さん(60)に大英帝国デイム(男性のナイト=勲爵士=に相当)の称号が授与されることが決まった。
近くエリザベス女王から直接授与される。

 ロンドンを拠点に活躍する内田さんは、ロンドン交響楽団ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など世界の一流オーケストラと精力的に協演。
流麗ながらめりはりの利いた演奏はクラシック音楽界で絶賛されており、世界有数のピアニストとして抜群の存在感を示している。

 デイムの称号は文化や学術、芸能などの分野で著しい功績があった女性に与えられ、これまでに、女優のエリザベス・テーラーさんやオペラ歌手のキリ・テ・カナワさんらが授与されている。(共同)


が、自分としては内田さんの精神性、というかアーティストとしての内田光子の本性、に興味があってしようがない。
あれほどの、専心し、また求められたモーッアリスト、は今何を思うのだろうか。
と思っていたら、内田さんの手記を発見。
インターネットはこんなにも便利だ。

才能、とは「情熱の量」である。

「金持ちであることなんて最終的には何の意味もない。
贅沢なものを所有しなくたって、自分がやりたいと思うことを、やりたいようにやって生きていれば、他に何を望む必要がありますか?」

芸中家の「追いかける本分」をきちんと見ているのだろう。
「他に」めをくれることがない、という部分が余計に共感を呼び、また「その他の論理」を寄せ付けない。

「口紅1本持っていません。そんな時間がもったいないから」

要するに、そういうことなのである。
「1000回生まれ変わったら、999回はピアニストになりたい」という気概(あとの一回は何だろうか)。


自分たちは「何に対しても」今から、とことん努力する権利を持っている。
その権利を行使するか否かは、まったく自分次第であり、それを決めるのは家族や恋人ではなく、まったく自分の決断なのだ、という厳しさを内田は示しているではないか。

「音楽とは、美しい何かを人と分かち合うものです。
演奏することは、自分がうまいということを見せびらかすものではありません」

芸術とは孤高の何かであり、また人間の特徴でもあるようだ。
そんな深遠の淵にぜひとも佇んでいたいと思う。



以下、少し長いが加藤 浩子さんのコラム全文を引用させていただく。

音楽とは、美しい何かを人と分かち合うこと。


才能とは、情熱の量である。

もうずいぶん前になるが、ある新聞で内田光子のインタビューを読んだとき、そう思った。

「とにかくピアノを弾くことが、好きで好きでたまらない。1000回生まれ変わったら、999回はピアニストになりたい」

「口紅1本持っていません。そんな時間がもったいないから」

といった発言に、強烈なインパクトを受けたのである。


世間ではよく「努力」が肝心、だという。けれど努力ができるのもひとつの才能なのだ。
もっと言えば、「好きで好きでたまらない」ことをやっていれば、人間、それが「努力」だなんて思わないものである。
好きで好きでたまらないことがあり、時間を忘れてそれに情熱を注げること。
それこそ、本当の才能というものではあるまいか。

以来、「才能とは情熱の量である」と、思うようになった。


内田光子については、このコラムの前身のコラムでも触れたが、初めて読んでくださる読者の方のために書き添える。

内田光子はロンドン在住の日本人ピアニスト。
外交官の父のもとに生まれ、12歳で父の赴任先であるウィーンへ行き、そのまま同地の音楽大学に学んで、ピアニストとしてデビュー。
各地の有名コンクールに入賞後、いったん帰国するが、まもなくロンドンに本拠を移し、国際的な活躍を繰り広げながら現在に至っている。とくに“モーツァルト弾き”として名高い。


国内ではフジ子・ヘミング中村紘子の方がピアニストとしては有名かも知れない。
だが世界の音楽界における内田光子の評価は、ちょっと次元が違う。一例をあげよう。
来年はモーツァルトの生誕250年にあたり、母国のオーストリア各地では記念の行事やコンサートが目白押しなのだが、その中での目玉中の目玉、1月27日のモーツァルトの誕生日に生誕地ザルブルクで行われる記念コンサートに、世界でただ一人ピアニストとして招かれているのが、内田光子なのだ。


ちなみにこの日のほかのメンバーは、リッカルド・ムーティ指揮のウィーン・フィルに、ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)、ユーリ・バシュメットヴィオラ)、トーマス・ハンプソン(バリトン)、ルネ・フレミング(ソプラノ)。
いずれも、世界一流のアーティストたちである。


もともと内田光子が有名になったのは、1980年代にロンドンで行った、モーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会がきっかけだった。
モーツァルト弾きとして名前があがるのも、むべなるかな、なのである(アーティストとしては当然のことだが、本人は自分をモーツァルト弾きの枠になどはめてはいないのだけれど)。


そんな彼女の最新のインタビューが、「考える人」という季刊誌(2005年春号、新潮社)に載っていた。さっそく雑誌を購入して一読、これぞ内田光子、と手を打ちたくなる名言の連続に、しびれてしまったのである。


たとえば。


「金持ちであることなんて最終的には何の意味もない。
贅沢なものを所有しなくたって、自分がやりたいと思うことを、やりたいようにやって生きていれば、他に何を望む必要がありますか?」


「私は偉くはなりたくないの。
人間て偉くなるとゴミがついちゃう人が多いんです。
私はこれからも、学生にちょっと毛が生えたくらいの感じで一生暮らしていきたい、と思っています」


「有名人」扱いされて舞い上がっている、いろんな人に聞かせたい。


「…日本に限らないことです、自国の人間を持ち上げようとするのは。
愛国心は19世紀初めからの現象だと人は言いますけれど、それ以降の人間には愛国心が大抵は備わっているものらしい。でも私はあまり愛国心に関心がない。
私はまず人間が大事であると思うし、音楽が大事なんです」


「私にとってロンドンに住むということは、自国であるような、ないようなところに住んで居る、ということなんです。
だから余計に、必要以上に持ち上げられることはない。
演奏会にも、本当に好きな人だけが来てくれるわけです。それだけで私は十分なの。
それ以上のことには興味がないから。
ロンドンに住むのは、そういう意味でも干渉されることがないし、快適なんです」


愛国心」がないなんて、と目くじらを立てないでいただきたい。
内田光子は、自分の求めるものを知るひとでもあるのだ。
彼女は自分が何者であるかを知っている。自分がどうすれば幸せなのかを知っている(そうではない演奏家も、実は多いのである)。
彼女はまず人間であり、そして音楽家であるのだ。自分を知る彼女は、だから自由なのだ。


生まれ変わることができるなら、内田光子のような音楽家になりたい、と筆者は思う。


「才能は情熱の量である」と感じたのと同じくらい感銘を受けたのは、次のようなくだりだった。

「音楽とは、美しい何かを人と分かち合うものです。演奏することは、自分がうまいということを見せびらかすものではありません」


この言葉が出てきたとき、ぴんと来た。彼女の演奏会は、まさに彼女の音楽を分かち合う場所だ、と思えたから。
そして「自分がうまいということを見せびらかす」ために演奏している演奏家も、信じられないほどに多いものだから。そう、華々しく活躍している演奏家の多くは、そのような演奏をしている。


「ピアノのソリストって室内楽をやらない人が多いんです」


という発言も、そのことにつながっている。
ピアノという楽器は、もともと独奏に向いている、マイペースな楽器である。
なにしろ、一台でオーケストラに匹敵するようなことができてしまう楽器なのだ。だから活躍しているピアニストの大半は、独奏と、オーケストラとの共演(協奏)でやっていく。
相手があり、相手をよく聴かなければならない室内楽や、リート(歌曲)の伴奏は、独奏ばかりやっているとなかなか難しい。


けれどそれでは、「おへそでお茶を沸かすようなもの」だと、内田光子は言う。


実際、彼女ほど多方面に意欲的なピアニストはすくない。
あのヨー・ヨー・マたちと、メシアンなどという20世紀の作曲家の四重奏曲にチャレンジしたり、ボストリッジというきわめて個性的な歌手の伴奏をしたり。
そのたびに、さまざまな面を見せてくれる。
そしてそのどれもが、今思い出せば、「美しい何か」を分かち合っている演奏だった。
彼女が愛し、愛しみ、深く読みこんだ音楽で、会場を満たし、その喜びを相手の演奏家と、そして聴衆と、分かち合っている音楽だったのだ。


内田光子が「美しいものを分かち合う」相手のひとりに選んだのが、ヴァイオリニストのマーク・スタインバーグ。
「お互いに頭の働き方が似ている。
脳の皺の寄り方が近いんじゃないか」と彼女が言うだけあって、抜群に息のあった演奏を聴かせてくれる。
2人による最新盤は、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集。
両手をふわりと重ね合わせたような自然な温かみと、親密さと微妙な距離感との絶妙なバランスが同居した、心に沁みる一枚だ。
ここには演奏家の「ひけらかし」はかけらもない。
すべては「モーツァルト」の、その音楽のよろこびを生かすために存在している。
ひとつひとつの音が何の違和感もなく、調和に満たされてそこに存在しているということ、つまりはモーツァルトの作品の完璧さを、改めて教えてくれる演奏なのである。


インタビューの最後に、亡父の思い出話があった。
亡くなる1年ほど前に来てくれ、それが自分を聴いた最後になったという、演奏会のことである。


「演奏会が終わって、帰りのタクシーのなかで、母に父は言ったそうです。
『何であの人が我々の娘なんだろう』って。
母が『何で? どうしてですか?』って聞くと、また、『何であの人が我々の娘なんだろう』って繰り返したそうです。
これが、父が聴いてくれた最後の演奏会でした」


筆者はこのくだりを読んでいて、どうしてか分からないのだが、涙ぐんでしまったのである。
内田光子は、やはりこの父にして生まれた娘、なのかも知れない。


内田光子&マーク・スタインバーグ モーツァルトヴァイオリン・ソナタ
作曲:モーツァルト
演奏:内田光子, スタインバーグ(マーク)
ユニバーサルクラシック - 2005/03/23
CD ディスク枚数: 1

ASIN: B0007OE2RQ


加藤 浩子

慶應義塾大学大学院修了(音楽学)。
大学講師、音楽物書き。
大学ではオペラのDVDで教室をテレビつきお茶の間状態にし、プライベートでは有り金はたいてオペラに通い、オペラツアーのオーガナイズにも手を出す。
一方で古楽(バッハ周辺)も大好きなので、熱心なバッハファンなどには「精神分裂病」とニラまれる(?)。

HP「ヒロコの憩いの家」では、「コンサート日記」に加え、ブログ「ヒロコの言いたい放題日記」で言いたいことを書きまくっている。