我が国で最古であり、稀代の名人たちが読んだ歌、万葉集。
それは勉強すればするほど、千年以上も経った後の自分たちに「何か深いもの」を問いかけてくれる。
何千年経とうとも、畢竟我われは「恋する動物である」ということなのかもしれない。
それにしても、その古い書物の記録と、それを未だ「新鮮に分析しようとする叡智」こそが人類の兼ね備えた最大の知恵なのだ、と思わざるを得ない。
自分たちは、時代が進めば進むほど、そして
自分たちの過去を知れば知るほど、さらに
自分に対しての疑問が湧いてくるのだろう。
さて恋心、とはどんな味なのだろうか。それとも
どんな味だったのだろうか。
<ナカニシ先生の万葉こども塾 より>
切なさがつのる 恋の行方
吾(あ)が恋は まさかもかなし草枕 多胡(たご)の入野(いりの)の 奥(おく)もかなしも
◇
巻十四の三四〇三番、作者不明
わたしの恋はいまもかなしい。
草を枕にする多胡の、入野の奥――未来もかなしい
◇
「恋心ってどんな気持ち」と聞かれたら、どう答えますか。
作者の答えは一言「かなしい」です。そればかりか「いつまでもかなしい」と明確です。
ずばりとした答えから、恋を見つめる澄んだまなざしを感じます。
いったい「かなしい」とはどんな気持ちでしょう。
大事な物を失えば悲しいですね。悲しみは深く何かを愛する気持ちのようです。
だから、もし愛する人をなくしたらと思うと、切なくて仕方ない。
作者はそんなわが身が、いじらしくて、いとおしくて、悲しいのです。
作者はいま、多胡(群馬県の一部)の野原に立って、愛する人のことを思っています。
野は果てしなくつづき、山裾(すそ)の間にまで入りこんでいきます。樹木におおわれた谷あいの野の先。
それがおぼつかない恋の行く末のように思われ、切なさがつのります。