藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

"道"をゆくこと。

書道はcalligraphy。
だけど柔道は"Japanese art of self-defense"。
合気道は"art of weaponless self-defense"。(ほほ。「武器なし」なのである)
剣道は"swordsman ship"。(これは「騎士道」と似ている。中身も。)


この「道」という概念、あまり外国にはないようである。
で、何が言いたいのか。

この我が国独特の「道をゆく」ことをぜひお薦めしたい。というのが今日の結論。


先日、ある音楽家の御夫婦にお会いする機会があった。

「自分たちの最も幸せなことは、決して裕福ではないけれど、二人とも"一生を通して取り組めるものを持っていることです"。
と満面の笑顔で話されていた。

それからしばらく「その笑顔」が気になっていたのだが、その話。
日本の武道とか、習い事とか。
囲碁将棋もそうである。
恐らくは「ある程度の上達の目安、とか方法論が確立しているもの」の方が適しているのだと思う。

マチュアは白帯、とか有段者は黒帯、とかさらに昇級のための努力目標も比較的分かりやすいようなもの。

ある程度、師に付き、習い、という「お稽古ごと」的な者の方が分かりやすい。

継続のヒント


一方、絵画とか陶芸とかもうまったくの「創造芸術」の世界になると、あまりに(上達の)比較の目盛りがなくて、特にアマチュアには入り辛い。
(プロになってしまえば同じことだと思うが)
これらは一見「趣味」と同化してゆくようにも思うが、例えば写真撮影とか、山登り、とかまた音楽とかもなかなか「上達の道筋」というのが一筋縄(一本道?)ではない。
三級から二級、二段から三段へ、という「分かりやすさ」がアマチュアには必要であると思う。

要は「一生をかけて順々に成長してゆくようなものを、趣味にせよ仕事にせよ"一つ"見つけましょうよ」ということなのであった。

ただこの「一生をかけて」というのが曲者である。


あまり簡単なもので「パズルを解く」というようなものでは、知的好奇心が満足しない。
とはいえ「ファティマの謎」とか「フェルマーの定理」とか雲の上のようなものに挑んでは、闘争心すら湧いてこない。
アスリートが記録を競う、というような類のものは、体力のピークとともに終わってしまう。


最近デジカメの発達が素晴らしく「写真が趣味」という人によくお会いするが、津々浦々の映像記録は思い出としては楽しいだろうが、何か「ヨコに広がる」趣味のようであって、「タテに積み上がるもの」に乏しい。
つまり。
その「熱中の対象」の条件としては、

「一生をかけても極めきれないくらい深みがある」という複雑さ、難しさ、のようなものがあること。


でも
「少しづつ稽古をしたり、また師に導かれたりして、前に進んでいる実感が得られる」ということ。
これは「継続のための仕掛け」である。


とさらに、
マチュア上位レベルくらいまでは、「練習や教育の方法論がある程度定石化している」ものであること。
これがないと簡単に始められず、結果普及もしない。

一つ一つが真剣に挑めば、深遠なテーマであるから、一生に三つも四つも手掛けてはゆけない。
生涯の伴侶とあう、くらいのものである。
だから何歳になっても遅いということもなく、「そういう目」を持ち続けて「いつかそういう"道"を見つけよう」という気構えがなにより大事である。


さらに何もしないでは、何も始まらない。
まず動く、ということも出会いでは必須である。