藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

次への備え。


先日電力会社の試算値を聞くと、今年の電力需要見通しは、原発への依存度(30%)にほど近い25%ほどの電力が足りなくなるらしいという。
水や消費財は未だ品薄状態が続いているけれど、震災の直接の被災地以外では、そろそろ落ち着いてこれからのことを考えねばならないと思う。


万事、いつも反省の連続ではあるけれど、この度は「緊急時」において国がどうこう、はともかく「自分の周囲」と言う意味でも何の備えもできていなかった、というこに驚いた。


と同時に「備え」というのがどこまでの事態を予測しておくべきなのか、というのは国レベルの施策、つまり「政治の表明」というのが非常に重要で、そういった「緊急時のビジョン」が速やかに示される「リーダーシップ」がない限り、この度の全国的な「買い占め心理」とか「風評による疎開」のような愚行を我われはしてしまうということもはっきりした。

どこまで備えるか、という考え方。

次に備えて、食料やライフラインの確保の方法などは「最悪の事態」をも想定して設定しておいてもらいたいが、個人レベルでも「一週間」は完全に自給できるような体制を敷く、とか広域での被災の場合には「予め街レベルでの避難都市と提携しておく」などの災害プランを持たないと、もともと火山だらけのこの国に「安心して住む」という難問は解決しないようにも思う。


何十年に一度、ひょっとしたら数百年から千年に一度の災厄に、万全に備えておく、というのは今回の津波の被害を見ても「経済的に準備は困難」なレベルにあるのだろう。
日本は太平洋側の海上に数千キロにわたって「万里の長城」を作らねばならないことになる。
それはおそらく叶わぬだろうと思う。


原発に頼らない生活を考えた場合に、依存していた30%のエネルギーを「自分の住む地域外」の場所の確保や移動の準備などに振り向けるのはいかがだろうか。
そして、普段の生活も三割減に。
摂取カロリーとか、活動の時間とか、使用するエネルギーももちろん、三割節約を心がけて、その節約分の余った時間を「備え」に向けるのである。
普段の三割、をも備えに向けるのは過分な気もするが、これまでの「高エネルギー生活」はあまりにも消費をし過ぎていた、と改めて思う。


節約した三割の時間やエネルギーは、水や消費財の備蓄に使うだけでなく、国のこれからのこととか、自分のこれからのことをじっと考える時間にしてもよいだろう。
「そんな感じ」の暮らしが日本人、には似合っているのではないかと思ったのである。