藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生の輝き。


先日、某トップエリートの人たちと話をしていて、つくづく不思議に思うことがあった。

あれほど光り輝くように見えた、彼らの、幸せとは一体何だろうか。と。

でも、この年になるといくらかは見えてくることがある。

「幸せ」はその言葉を発する「当人」が定義するんだよ、ということ。

不思議を感じたのにはわけがある。
地方のトップ私学から東大、「その在学中に公務員試験をベスト10で合格する人たちばかり」の集団である。
聞くと、そんな一握りのエリート集団中にいても「幸せとは言えない」と呟く人が多いという。
どんな価値観なのだろうか。


選りすぐられた同期の仲間たちは、キャリアトップへの昇進をひたすら目指す。
入庁後も熾烈を極める競争をするのだという。
50歳になるころには同期のメンバーはほとんどいなくなり、自分もまた「トップのいす取り」に負けたら外部団体に天下りすることになるのだという。彼らは言う。
「今さら天下り禁止、とかいうのは構造的におかしい。」と。
彼の偽らざる本音なのだと思う。

幸せな人から話を聞こう


でまあそんな中央官庁のエリートたちが自分を「幸せである」と定義できるかどうかはさておいて。
今の教育制度と学歴社会の中で、「トップ、必ずしも幸せとは比例せず」ということが言える。
また「無学歴、必ずしも不幸」でもない。
これ、本音ベースの話。

その「大人」が自分の人生をどう捉えるか、という非常に自主性、主観の強い問題なのである。

だから、僻(ひが)んだ、歪んだ大人の話はあまり聞いて欲しくない。

汚れていようとも、貧しくとも、「自分の幸せ」を語れる人と、若い人にはぜひ話をしてもらいたいのである。

実際、そういう「幸せ者」と話をしていると、自分の心まで温まってくるのだ。


新橋のさる屋台のおでん屋さんの親父さんの一言。

「今日は私の誕生日でね。いつも帰りは朝の三時くらいなんだけど、小学校の娘も嫁もずっと待っててくれるんですよ。お祝いにって。あの家族がいるから、なんぼ寒くても頑張れるんですよ。いくら冬が寒くても嫌だと思ったこと、一度もありまっせん。」

「私は、この屋台を引くことができて、本当に幸せ者です。」
その瞬間、屋台のオヤジはオバマ大統領よりも誰よりも輝いていた。