藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

充実時間の探し方。

若いころは、ただ気持ちの赴くまま「遊びに行きたいなあ」とか「ゲームがしたいなあ」とか「焼き肉がたべたいなあ」という気持ちが湧き、そして事情が許せばそのように行動する。
で、焼き肉が食べたいが、ポケットに1000円しかなければ、コンビニのおにぎりで我慢するほかない。
まあそんなものである。
とにかく、あまり「時間の過ごし方」についてなど考える機会はなかった。


昨日から、東京はずい分涼しくなった。
結局三月の震災以降、新年度とか、ゴールデンウィークとか、梅雨とかお祭りとかお盆とか、そういった"季節感のある行事"を丸ごと感じなくなっている。
思考停止というか、それほど精神的なショックを災厄が与えたのだろうと思う。


自分も全くそうで、いわゆる「時間を過ごしているのか、過ぎてしまっているのかが確かには感じられない期間」がいままで続いていたと思う。
ところが先週あたりから、急に"あ、時間が経ったな"という感覚が戻ってきた。
夢うつつから醒めたようでもある。

時間の過ごし方。

そして、同時にそれまでにはない感覚も芽生えていた。
それは

自分はどんな時間の過ごし方をしたいのか?という問いである。

美味しいものをひたすら食べたい、とか
好きな音楽をひたすら聴きたい、とか
好きな映画をひたすら見たい、とか
好きな本を読みたい、とか
好きな勉強をしたい、とか
ドライブをしたい、とか
異性と過ごしたい、とか
ギャンブルに興じたい、とか……

まあ色々あるだろう。
要は「それ」に向けて準備しているかどうか、というこが重要なのだ、ということに気づいたのである。

人生の過ごし方は一通りではない。
食べたり、寝たり、他人とかかわったり、いくつものイベントがある。

ただ、我われが過ごすのは「今日から」という将来の時間である。

つまり、これを「どう過ごすか」というのは、すべて自分の意思にかかっているのだ。

できるなら、自分の「したいこと、すべきこと」を目いっぱい出来るように準備したいものである。
改めて、自らの直の過ごし方を考えてみたい。
(その一)