藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

私の今の過ごし方。

人生、健康に生きても三十代くらいまで。
段々と「無限の時間(つまり若い)」を感じない年代になってくる。
要するに「あ、老いてきたな」という時期から。

そのころから、人間が「セコく」なってくる。
一番大切なものは「時間」である。
男性、女性で差があるようだが「意味なく話をする」とか「意味のない会議をする」とかいうことに耐性がなくなってくる。
気が短くなるということなのか、時間の消費形態に貪欲ということなのか。
ともかく、もっとも耐えがたいのは「無意味な時間消費」だと思うようになってきた。

けれど、人はいつも合理的に考えて生きているわけではない。
自分のように、それほど日常の仕事に追われているスーパービジネスマンではないのに、それでも時間の使い方にはこだわりが出てくるものである。


時間は無限にある、あるいは空気のように「意識せずとも良い」という感覚はやはり三十代前半くらいまでだろう。
それからは、場合によってはお金よりも「有限なものである」という見方にもなってきた。
もっともエゴイスティックなことかもしれない。

例えば居酒屋で、とくによく知らない常連客から身の上相談をされる。まあ赤ちょうちんのグチである。
こういうのは耐え難い。
お互いが、別に結論に向かっていないからだけでなく、酔ってお互いが論理的ではないから。
まあ飲み屋で、好き放題にオダをあげているだけである。
自分もそういう気分になることもあるのかもしれないが、ともかく自分が「浴びせられる側」になった時の苦痛は相当なものである。

なので、自分は一人でいる居酒屋でもあまり喋ろうとしない。


もう少し世界を広げれば、仕事とか家庭とか、友人とか先輩後輩とかで、もっともっと「コミュニケーション」をとるべき世界は無数にある。
ところが、半世紀も生きてきて、これまで触れ合ってきた人みんなに「きちんと関わっていく」というのも到底無理な話。
時間もないし、また相手もそんなことも望んでいないだろう。

『人付き合いに割く時間をどのように持つか』というのは、生活習慣の中では非常に重要なテーマである。

仕事に費やす時間を第一にするのか。
家族と過ごす時間に多きを割くのか。
それとも、自分オリジナルのテーマを持って人生を過ごすのか。

実はそんな「自分の時間の使い方」は人生の過ごし方そのものなのである。
学校では教わらないが、若い人も三十代後半以降の「自分の時間の使い方」つまり人生の過ごし方、について思いを馳せてはいかがだろうか。

人生では、そうなってから気付くこと、ももちろん多いが、「予めつもりをしておけばよかった」ということも多いものである。

どんな時間を過ごし、また「どんな時間を過ごさずに生きていくか」。

そんなことを若いうちから考えてみるのもいいだろう。