藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

これからの履歴書をイメージしてみる。

思えば、死ぬまで人生には終わりがない。
当たり前か。
エントリーシートなど何のために書くのか、と考えていたら妙な気分になった。
エントリーシートは会社に入ったり、転職したりするためで、目的が果たされればそれでお終いである。
けれど、人生はそれからもずっと続く。
人生を生くることは、死ぬまでエントリーシートを書いているということなのかもしれない。
だから日経新聞には「私の履歴書」が連綿と続いているのだ、などと思う。

誰にも履歴書。

リンカーン曰く、四十を過ぎての男の顔は、その生き様の履歴書であるという。
ム。

ちょっとした考え方のコツだけど、毎年、毎月、(まあ毎日とはいかなくても)「自分の履歴書」を認(したた)めている、と考えるのはどうだろうか。

別に人に見せるものでもないけれど。
けれど親しい友人や子供なんかの目に触れる機会はあるやもしれない。
何より、自分のために書くのです。

ちなみに、先日ワタミの渡邊社長のインタビュー記事には、氏は「毎朝、当日の一日のやるべきことと、成果のイメージを必ず頭に描く」ということをしているという。
成功者はやはり違うな、と感心。

自分の履歴書には、どれ程の密度でどんなことが記せるだろうか。
○○年、□■大学入学
○△年、□■大学卒業、そんなことだけが自分の履歴なのであれば、それは寂しい。

趣味も、特技も、資格も、「自分を表現する方法が充実している」ということは、自分の人生が充実していたということに通じる。

つまり「履歴書を認(したた)めるような気分」で人生の選択をして行ってはどうかと思うのである。

よく学生さんの言う「キャリアプラン」とか「キャリアアップ」というのは、実は大して本意ではない。
「キャリアを積む」ということが魅力に思えてしまうと"それそのもの"が自己目的化するのである。
華々しいキャリアを「記述してゆくこと」が重要なのではない。
それによって「私が得たもの、感じたもの」が大事なのだ。

自分の履歴書に、どんな内容を記すのかを決めるのは自分自身である。
自らの履歴を考えるということは、そのまま「自分のこれから」を予め考えることに通じる。
将来の「自分の履歴書」をぜひ想像し、作ってみてはどうだろうか。

もう四十を過ぎた自分も、まだこれからの数十年分の履歴書はかく余地がある。
これからそんなものを「自分で書いてゆく」というのは、真っ白なキャンバスに自由に絵を描くようで、ちょっと楽しい気分になれるような気がするのである。