藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

いよいよ現実の課題。

講談社が遂に「すべての新刊の電子書籍化」を実施するという。
ついにe-publishingのフル・リアル化が実現する。

紙の本を作る際、著者の許可を得て、電子書籍向けの電子データを同時につくる。

ということ自体には、さほどエネルギーはかからない。
ブラス・アルファの手間で、電子書籍化はついに完全化することになったのである。
講談社の野間社長は「著作権者の最大利益を求めて考える」との雄弁を発されているが、これはまったく裏側から見ても同じこと。
「読者の最大利益を求めて考える」ということと何ら背反するものではない。

本筋の考え方

そもそも、著作物が「まったく著者の意図を無視して流通する」ということなら(それでも"ある意味において"だが)著作権者の知的権利は侵害される、と言える。(自分はこれも「狭義に」であると思うが)
コピーが何回まで許される、とか
著作物の権利が、権利者の没後70年である、とか
権利の利用料が何パーセントである、とか
「私的利用や教育目的なら許諾される」とか

そもそも著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。(著作権法第二条より)」などと色々言い始めると、どんどん現実の運用と乖離し始めてしまう。

内田樹さんはじめ、「今の時代の中心的な」著作者は、さらに強気に「自らの思想」を重きとして、"あらゆる流用、剽窃も厭わず"との姿勢を打ち出したりされているが、ここまで裸になれる思想家はそう多くないのだろうと思う。(この潔さが自分は好きだが)

原点回帰。

そもそも、著作者が苦労をして創作をし、それを"公(おおやけ)"に利用させるときの「決まりごと」である。
あまりにも「決まりごと」がうるさければ「もう利用しない」となるのはサービスの道理。
結局、電子書籍にせよ、週刊誌にせよ、新刊にせよ、全集の発行にせよ、「"その源なる知的財産"とそれを"是が非でも利用したい大衆"」の二者がいて初めて成り立つ関係である。

ということは、講談社の「全作品著作化」というのは、そのために限りないユーザー寄りの選択肢を提供した、という努力の結実である。(と同時にやはり著作者の利益にも限りなく近づいていると思う)

つまり、「流通のコストとか、印刷のコスト」などは省かれていいが、「著作の取材活動費とか、編集者や企画を担当する出版社の知的費用」はもちろん担保されるべきである。

結局この世界にも「透明化」が訪れているだけであって、他業界の騒動と同様に「余りに実体とかい離し、本業をつぶしてしまうような事態」には至らないと思う。
ここでも守旧派の取次店のシステムや委託販売制度などの「旧態」が改革されてしまうことへの抵抗がまだ続いていただけなのである。

そして、講談社がついに「全作品の電子化」を表明したことによって、いよいよ"著作物流通の新時代"がはじまるだろう。
ルールが整備されれば、「著作そのものが持つ知的パワー」が光り出し、これまでの「活版印刷の時代」を飛び越える「超コンテンツ流通時代」が来るだろう。
ここまでの抵抗勢力との確執は、そのための産みの苦しみだったのではないだろうか。
"或る時代"は超えてしまえば、もう全部過去のこと、になるのに違いない。

講談社、全ての新刊の電子書籍化が可能に 6月から
講談社は6月から、すべての新刊について、紙と同時に電子書籍も刊行できる態勢を整える。野間省伸社長が20日の記者会見で明らかにした。

紙の本を作る際、著者の許可を得て、電子書籍向けの電子データを同時につくる。作品発表後のいずれかの段階で、電子書籍として発売することをめざす。

 電子書籍の刊行時期は、著者と相談して決める。紙と同時とは限らない。シリーズ作品を複数巻がまとまる段階にしたり、文庫化の可能性が高い作品を文庫化の段階にしたりすることを検討する。野間社長は「著作権者の最大利益を求めて考える」と説明した。