藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

経験する力。

「経験する力」とは何のことか、と思われるだろうか。
まだ若い、小学生のころならば「経験する力」はそれこそ無限。
誰もが、掛け値なく声をかけ、また本人も「あらゆる刺激を受け」て色んな反応を返してゆく。
そんなことが若いころには平気で行われる。
それが、年をとるにつれ、仮に二十歳近くにでもなれば、もう「誰もが声をかける」という雰囲気ではなくなる。
「説教じみたこと」はせめてこれまで。
もう十年経って三十路にもなれば、あまり「思うままのこと」は当人にはいいにくい。
四十、五十になればなおのこと。
「もう声もかけにくい」ということも少なくない。

環境に刺激を送ること

年齢を問わず、環境が変わらず、そこで快適に過ごしていると「その他の世界」を経験したいという気が薄れてくる。
環境が変わるストレス(例えば海外旅行など)と、そこで得られる楽しみとを比べても、今の環境の方が有り難かったりするのだ。

あらためて変化に感謝すること。

先日、自分の習う音楽教室の発表会があり、まあ社会人になってのどのプレゼンテーションよりも緊張し、また失敗した。
その後の不思議な感覚は「まだそんなことがあるのか?」というような貴重なものだったのである。
一万人の聴衆の前でするプレゼンよりも、三十人の前でする自前の演奏の方がよほど緊迫していた。
その意味を、今考えている。

そして同時に、「その時のこと」を考えると、何か自分が少年時代に感じていたような"新鮮さ"を禁じ得ないのである。
二度としたくないような緊張だけれど、それはここ三十年くらい、自分が忘れていた感覚の追体験のようなものなのだ。
徐々に老化していく自分の感性に、大きな刺激が加わったような、いわばここ数十年の「自我の解放」なのかもしれない。

まだ詳らかではないが、ともかく「刺激からの退避」は慣れ合いを生む。
「常に新しい刺激を受ける環境にいる」ということは老若男女問わず、かなり重要なことなのではないだろうか。

特に若い人にはそんなことを考えて見てもらいたいと思う。