藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

若さの万能感。

思えば三十代の頃は年長者との会合なので「若くてよかったな」と思うことがしばしばあった。
周囲は相当なキャリアの先輩たちだし、経験も知識もお金もあって、それに比して自分には「若造」という特徴しかなかったのかもしれない。
それにしても、めっきり「若くてよかった感」はなくなている。
そりゃそうだ。五十歳だもの。(嘆)

でも、ちょっと違うんです。
相手が自分より二十も三十も目上の人と話していても、二十代の頃のような「若さの絶対感」は消失しているから。
たぶん絶対値として「右か左か、前か後か」で分類すれば自分も「後半戦の人間」になったということだろう。

糸井さんも書かれているけれど、そうなると今度は「もう前半はない」ということを目の当たりにして「後半について」腹を据えて考えてみよう、というのが壮年時代の心境ではないだろうか。
「若いね」と言われているうちは、それほど切実な「終了の予感」は持てなった。
いよいよリアリティが出てきてから考え出す当たりがいかにも凡庸だけれど、そんな気持ちをリアルに通過してきた立場から書き留めておきたいと思ったのである。
若さの狭量というか、年を取ってみてようやく分かってくる、なんとも不思議な感覚なのです。

若いうちは、若いということを自慢したがる。
 年をとると、年をとっているということを自慢したがる。
 おなじ人なのに、
 若いときには若さが価値だと言い、
 年をとると経験や成熟の大事を語るものだ。

 そのことについては、うすうす気づいていた。
 若いときに、「若さを誇るのはやめよう」と、
 なんとなくじぶんを戒めていたつもりがある。
 「大人を信じるな」とか言ったって、
 やがてはじぶんが大人になるわけなのだ。
 そうかといって、そのころも、
 「若いものをバカにする」ような大人はいやだった。
 でも、バカにされるのも、しょうがないかとも思った。
 若いものたちよりも、大人たちのほうが、
 ずっと強く見えていたから。

 ただ、若さと老いとを同じ平面に並べて比べたら、
 きっと若さのほうがいいように思えるのではないかな。
 そういう比べ方をするかぎりでは、
 若さの勝ち、みたいなところがある。
 ただ、その比べっこを、そのまま続けていると、
 若さのほうが老いて行って、
 老いと老いの比較のようになっていく。
 ものごとが、すべて善きほうに向うのだとしたら、
 その善きほうの先には、老いがあるということになる。

 「あのじじい」と言っていた口元にしわが寄る。
 やわらかな隆起だったおっぱいは、
 そういうものではなくなっていく。
 じじいは、かつて「じじい」を笑っていた若者だし、
 垂れた乳房のおばあさんは、
 明るくころころ笑う娘さんだった。

 じぶんではどうしょうもないものごとを、
 自慢したり、バカにしたりしてはいけないと教わった。
 掛け値なしの、いまのじぶんを、
 そのまま見ることができたら、それは、
 大きくても小さくても、ひとりの立派な人間だと思う。
 冬の近さを感じ、しみじみと笑い、指で文字書く。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
男と女も老いも若きも、ともだちになれたらいいんだよね。