藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

経験知マップを書く。いわば白地図。

自分の経験知を地図に見立てると、山のように積み上がっているところもあれば、ぽっかり空いた洞穴のようなところもあろう。
まだまったく未開の地もあれば、もうべったりと塗りつぶされた深い海もあるかもしれない。
マインドマップではないが、まさにリアルな地球の地形のように、凸凹しながら複雑な様相になっているに違いないと思う。

そうした自分の経験知マップは、人生の終局で眺むれば「うむうむ。ワシの人生はこんな景色だったのか。→大往生。」でめでたしめでたしなのだが、まだこれからの人にとっては「出来上がったもの」では決してない。

これから地図を描く、昔社会科で日本や世界の白地図を作り、各国の名前を書いて塗りつぶしたように、自分の経験知マップは、自分で枠を作りそれを塗りつぶしてゆくような意識があると、とてもいいと思う。

他人から与えられる機会はもちろん数多くあるけれど、そこに「枠」を描き、そしてその囲まれた線を「どのくらいの濃さや色で塗りつぶしてゆくか」というのは自分次第。

まっ白い大きな紙に自分の国を作ってゆくようなものなのである。

そんな風に考えれば、もう他人からの「やらされ気分」に嫌な思いをすることはない。
すべては自分次第、舵取りは自分でできるのである。

自分自身で思い返せば、「人に評価されるためにしている仕事」と「誰にも評価などされず、むしろ結果が"自分だけ"に帰って来る仕事」の差であったと思う。

白いキャンバスに、黒鉛や絵の具でいきなり何かを描くのは不安なものである。

けれどそんな「限りない自由」も感じる感性があって欲しい。
体力、知力を好き放題に発揮できるのは30-50台の二三十年である。
その短い間にどのような絵を描くか、ということに尽きる。

思い切って自分だけで描くか、組織で描くか。
クロッキーか、水彩画か油絵か、彫刻かクラフトか。
それを、実は自分が決定できるし、決定者は実は自分でしかないのだ、ということを知ってもらいたいと思う。
人生の選択肢は、実は本人自身に「相当ある」という話こそ、若い人に気づいてもらいたいことの本質だと思うのである。