藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

"自分"の規定。

自分とはどんな人間か?

えーっと。京都出身で、大阪に育ち、高校までを茫洋と過ごして、大学からは東京に出て、IBM関連IT企業に就職し、その後三年で独立して…
そんな説明もある。

一体自分を説明するもの、というのは自分自身の内面だろうか。
それとも、"周囲の何かいろんなもの"を通じてこそ、自分が説明できるのだろうか。

他人に「フジノってこんなやつ」と説明してもらうことなくして、自分は自分を説明できるだろうか。

冒頭の説明で、自分がいつ生まれ、どこで過ごしてきたか、ということくらいは説明できる。
だが、例えば周囲との関係性の説明なしに、「自分の仕事振り」を説明できるだろうか。

過去の異性との付き合いのプロセスの説明なしに、自分の恋愛観を説明できるだろうか。

親との確執や、子供とのこれまでの生活の様子を説明しないで、自分の家族観とか血縁の概念を説明できるだろうか。

結局自分は何者か、を説明するのに「外部とのこと」に頼らずして自らを説明するのはとても難しい。

自分とは、他人に規定してもらわねば、形の現れぬものなのである。

マルクスか。
ともかく、今の自分を説明するには、これまでの人間関係や、自分の辿ってきた「足跡」を話す以外には人には伝えにくいものである。

結局人間関係というものは「俺ってこんなやつ」ということを、今これから目の前の相手に分かってもらうしかない、という"今からの真剣勝負"なのだろうか。

自分探しの旅、などとは言いたくないが「自分は何者か」を正確に理解するには、もう少し多面的なものの見方が必要だと認識した次第である。