藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

私の姿。

人にはあまり言わない人でも、皆コンプレックスは持っている。
不思議なもので「あんなに恵まれた人が」という人も、それなりに何かに引け目を感ずるのが人間なのである。
ああ不思議。

sankei.com【精神科医のつぶやき】より。

自分の日常について、医者だ・裕福だと虚言を繰り返す人の話。

また他人を猜疑心で眺め、執拗に中傷するという。
あまり付き合いたいという気にはならないが、考えれば気の毒な感じもする。
客観的にいえば、そんなウソをついていないで、その間に「なりたい自分」に本当になれるように努力しなよ、と言いたいところ。


だが一方、自分だって似たようなものかもしれないと思った。

経歴の詐称こそしないけれど、「自分は親切である」とか「自分は論理的な人間である」とか、「自慢げなことは言わない」とかの"自分なりの自分像"みたいなもの"は持っている。
これこそが周囲に対する鎧のようなものではないか。
本当の「素の自分」とは違うものだから。
いや、違わないのだろうか。

例えば他人を気遣ったり、何か世話をしてみたりというのも、その元の動機を何度かたどれば、その行動の発露は「自分可愛さ」だったりするものである。(いやでもそれは案外自分そのものだったりして・・・ 自分とは一体どんな奴なのだろうか)

畢竟。
日常の一挙手一投足にそんなことを考えながら行動している人はいないと思うが、案外自分ってどんな奴なのかを自ら考えることは少ない。
自分の過去を他人に話すとき、多少とも美しく脚色するのは女性が化粧をするようなものなのかもしれない。
それにしてもその「美化本能」は、他人が周囲にいるから芽生えるのか、それとも自分に内包するものなのか。

そう考えると、自分は「周囲なしには、自己のアイデンティティを考えにくい」ことに気づく。
孤高の世界に住み、周囲と関係しない世界にいるのならまだしも、地域や仕事にかかわり、少なからぬ人たちと関わらないでは生きていられない今の自分とでは、「どうありたいか」を考える前提条件がずい分と違う。
ここをはっきりと。

なりたい自分を考えるとか、自分のこれからを考える、というのは「それだけ」を切り離して考えるのではなくて、「今の自分の環境」を考え合わせて、「都度都度方針を見直してゆく作業」のことなのである。
なーんだ。

親が病んだ、とか家族がどうだ、とか仕事の環境が一定しない、とかいうのは生きている上ではごく当たり前のこと。
そうしたことを受け止めつつ、その都度「動的に視点を変えて」これからの方向を決定してゆく、そんなベテランの船乗りのようなものを想像する。
他人にどう説明するか、ではない。
自分が何処へ向かうか、なのである。

【精神科女医のつぶやき】片田珠美(1)ニセ医者の嘘がバレた理由
2012.9.6 16:00
 私が通っているジムに自称「医師」の女性がいたのだが、実は医師免許を持っておらず、とうとうと語っていた波瀾(はらん)万丈の人生も嘘八百だったことがばれた。
 私も最初はだまされていた。本当らしく聞こえるように、2つの操作が施されていたせいである。
 まず、彼女の話には、自慢話だけでなく、かわいそうなエピソードも織り交ぜてあった。関西の大学の経済学部を中退して東京の私立医大に入り直したので、医学部在学中の6年間、仕送りのために実家ではずっと肉なしカレーだった-という類の話である。
 また、他人の嘘に非常に敏感で、「あの人は結婚していると言っているけど、本当は愛人だ」とか、「あの子は会社員と言っているけど、本当は大学を出てからずっと家にいる」という具合に、口をきわめてののしっていた。
 嘘がばれてからしばらく、ニセ医者女史はジムに顔を見せなかったが、久しぶりにやって来ると、「東京で豪華なマンションに住んでいる」と自慢するようになった。現在は「外国に勉強に行くことにした」という理由で休会中である。
 外国にいるはずの彼女を、最近も近くの駐車場などで見かけたという証言が数多くあり、もう誰も彼女の話を信じてはいないが、医師免許にせよ、東京の豪華なマンションにせよ、すべてに彼女の願望が投影されている。
 いずれも、欲しいと願いながらも、手に入れられなかったものなのだろう。かわいそうなエピソードも、悲劇のヒロインになりたいという願望の表れではないか。
 彼女はちょっと極端だが、われわれだって、心の中で「なりたい自分」を思い描き、妄想をふくらませて、現実の惨めさを補おうとすることはある。
 現実が耐えがたいほど、「本当はこんなもんじゃない」「自分はもっとすごいはず」という思いが強くなり、想像的な世界に逃避するものなのである。

 日常のふとした出来事にも表れる人の心の動きを、精神科医の片田珠美さんが鋭く分析します。片田さんは昭和36(1961)年、広島県生まれ。大阪大医学部卒、京都大大学院人間・環境学研究科博士課程修了。著書に「なぜ、『怒る』のをやめられないのか」(光文社新書)など。