藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

潮の変わり目。

池上さんの講義録より「中国と台湾に雪解けの機運」というお題。
もともと同根とはいえ、犬猿の仲。
百年も経てばお互いの関係性も変わりつつあるということか。

それにしても、最近の米ソの応酬を見ても、やはりアメリカの一極支配の構図はかなり変わりつつあるようで、中東、中国、東欧、ロシア、の四つを見ていればかなり鮮明な動きが感じられる。
世界にはいろんな国がポートフォリオされていて、大きくなったり小さくなったり(あるいはなくなったり)しながら様々に「瞬(またたき)き」を繰り返しているけれど、地球上に広がりすぎたアメリカの神経系統が縮小し、その代りをロシアやイスラム圏の国々が担ってコントロールして行こう、というような動きが感じられる。

原発とかPM2.5とかいろいろと問題もあるが、それにしても新興国を含めた「世界全体のGDP増加」はどうも困難なのではないか、と俯瞰してみて思う。
残念だけれど、今の60数億人、は急激に増えすぎたか、あるいは地球のキャパオーバーなのではないかと思う。
エネルギー関連も、食糧や医学も確実に技術革新を遂げているし、目覚ましいものがあると思うが、まだ科学の技術が追い付けていないという気がする。
地球上の適正人口を計るのは難しいテーマだが、ネットワークが将来こうした問題に解決策を提供するかもしれない、とも思う。
いずれにしても「部分最適」とばかりに国内政治やTPPとか、軍事同盟とか条約とか、個別に処していたのでは収拾は付かないだろうことくらいは想像がつく。
新しい波が起きているかもしれない、という目でいつも世界を眺めていたいものである。

中国と台湾に雪解けの機運
戦後世界のかたち(5) 東工大講義録から

世界の関心がロシア・ソチ冬季五輪に注がれていた2月、1949年(昭和24年)の分断以来初となる、中国と台湾の歴史的な対話がありました。一段と結びつきを強める経済分野に加え、政治分野でも良好な関係を築く狙いがあるようです。互いに国家として認めてこなかった中国と台湾の新時代は果たして動き出すのでしょうか。

■南京市で歴史的な対話

 今年2月11日、中国と台湾の当局は、江蘇省南京市で中台政策を担当する閣僚級の会談を開き、両当局の間に直接対話の枠組みを設けることで合意しました。担当閣僚らが、窓口機関を通さずに電話などで直接対話ができるようにするほか、双方に設ける代表事務所の設置条件などについても議論しました。

 台湾は環太平洋経済連携協定(TPP)と東アジア地域包括的経済連携(RCEP)への参加を目指しています。一方的に貿易交渉の議論に参加し、独自路線を歩んでいるわけではないということを中国に示す狙いもあったようです。

2月11日江蘇省南京市のホテルで会談を前に握手する、台湾の王郁蒅大陸委員会主任委員(左)と中国の張志軍国務院台湾事務弁公室主任。中国と台湾は関係改善に向けて新たな一歩を踏み出した=共同
2月11日江蘇省南京市のホテルで会談を前に握手する、台湾の王郁蒅大陸委員会主任委員(左)と中国の張志軍国務院台湾事務弁公室主任。中国と台湾は関係改善に向けて新たな一歩を踏み出した=共同

 一方、中国は中台の経済協力枠組み協定(ECFA)を具体化するため、台湾海峡を挟んで、両岸の一層の経済交流や協力関係の強化を重視しています。ただし、台湾内では野党などの反対もあって、協力関係づくりが遅れているという事情もあるようです。

 会談場所となった南京市は、かつて国民党政権時代に首都を置いていた土地でもあります。建国の父とされる孫文墓所があります。今回、中国は会談開催にあたって、台湾側の要望に耳を傾けて配慮していたことをうかがわせるエピソードです。

 今回の会談は、1949年(昭和24年)に中国共産党中華人民共和国の建国を宣言し、台湾との断絶が決定的となった時以来、初めてとなるものです。

 これまで中台は、それぞれが「中国」を代表する正統な政権であることを主張し、対立を続けてきました。民間の経済部門や個別の政党間では交流を重ねてはいましたが、新たな関係づくりに向けて動き出した一歩といえるでしょう。

 それでは第2次世界大戦以後の台湾の歴史を中心に振り返ります。

 かつて、台湾は日本の植民地でした。1894年(明治27年)から翌年にかけて起きた日清戦争で、日本は清国(現・中国)に勝ち、1895年(明治28年)の「下関条約」によって、台湾を清国から割譲させました。

 日本にとっては大きな戦争に勝って獲得した初の海外領土でした。当時の日本政府は、優秀な人材を大量に送り込み、台湾の発展に力を入れます。「台湾総督府」を設置し、日本から派遣された台湾総督が「天皇の名代」として統治する手法を取り入れました。

いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。63歳。
いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。63歳。

 日本による統治には抵抗する住民もいました。日本は軍隊の力で鎮圧し、約1万人の犠牲者を出したという記録が残っています。日本は現地の人々に対して日本人化を進め、日本語を徹底的に教え込みました。現在も台湾の高齢者が日本語を話せるのはこうした歴史的な事情があるのです。

 植民地支配そのものは正当化されるものではありませんが、当時は英国など欧州の国々もアジアやアフリカで支配を拡大していました。日本は植民地政策のモデルケースとして、台湾の社会基盤、教育制度、医療衛生など様々な分野に力を入れて取り組んできた面があります。これが第2次大戦後のそれぞれの国や地域の経済や社会のかたちに大きくかかわっています。

 日本の戦前の取り組みは、現地の教科書にも書かれており、当時の日本に対する評価や批判などを含めて知ることができます。

第2次大戦後も対立続く

 太平洋戦争が終わり、日本は台湾を放棄しました。台湾は、中国大陸にあった当時の中華民国支配下に置かれました。中華民国は国民党による一党独裁でした。国民党は日本軍との戦争では、対立する中国共産党と協力して戦っていましたが、戦後は再び内戦状態に陥っていました。

 日本という支配者が去った後、台湾には大陸から国民党が新たな支配者としてやってきました。すると、古くから台湾に住む人々との間に軋轢(あつれき)、対立が起きるようになりました。

 象徴的な事件が1947年(昭和22年)に起きました。きっかけはタバコを密売していた高齢の女性を、警察官が取り締まったことでした。女性に対するあまりの乱暴な扱いに、通りがかった男性が抗議したところ、射殺されてしまう事件になったのです。

 この事件をきっかけに、古くから台湾に住む人々の怒りが爆発し、抗議運動が全土に広がりました。台湾ではいわゆる「2.28事件」と呼びます。国民党は手に負えなくなり、大陸に援軍を要請し、武力を用いて抗議運動を鎮圧したのです。この結果、多くの犠牲者が出ました。

 後の時代に行われた調査によれば、およそ2万8000人が犠牲になったと公表されました。その大半が各地でリーダー的な役割を担っていた人々だったと考えられます。本来ならこれらの人々は、戦後の台湾の経済や社会の立て直しに重要な役割を果たしていたかもしれません。

本省人外省人

1949年10月1日、北京の天安門中華人民共和国の成立を宣言する毛沢東主席。これにより中国と台湾の分断が始まった=ANS共同
1949年10月1日、北京の天安門中華人民共和国の成立を宣言する毛沢東主席。これにより中国と台湾の分断が始まった=ANS共同

 やがて中国大陸での共産党との内戦で劣勢に立たされた国民党は、大陸に逃げ場を失い、確保していた台湾に逃げ込みます。1949年(昭和24年)10月1日、中国共産党毛沢東が北京の天安門広場中華人民共和国の成立を宣言した時には、内戦は続いていました。

 この年の12月、国民党の敗北によって内戦は終結。国民党関係者や中華民国政府幹部、兵士とその家族など計200万人が台湾に移り住んだとみられています。

 中国の南京を首都にしていた中華民国は、台湾の台北を「臨時首都」に定めます。台湾には、台湾で生まれ育った「本省人」と、外からやってきた「外省人」の2つの生い立ちを持つ人々が存在するようになりました。

 中国大陸の統一を果たした中国共産党の指導者・毛沢東は、態勢を立て直して台湾を国民党の支配から「解放」しようと考えていました。ところが、まもなく1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮を支援することになり、台湾にまで手が回らなかったという事情があります。

 当時、世界は米国グループとソ連グループの陣営が厳しく対峙する冷戦の時代を迎えていました。欧州では既に東西ドイツが分裂し、軍事的な緊張関係が高まっていた時代です。

 米国は東アジアでの社会主義国の動向に目を光らせていました。北朝鮮を支援する中国をけん制するために、台湾を守る姿勢を明確にしました。対社会主義への防波堤と考えていたのです。

 台湾は独裁政権ではありましたが、経済は資本主義をとっていました。米国が経済援助を始めたこともあって、台湾は独自の路線を歩むことになったのです。

 台湾では戦後、大陸から逃れてきた「外省人」主導による政治や経済活動が行われるようになりました。国民党独裁の下で経済改革や農地改革が成果を上げ始め、徐々に経済発展を遂げていきました。一方、中国では「大躍進政策」の失敗や文化大革命の混乱などの影響で経済の停滞が続いていました。しかし国際社会で、台湾と中国の立場が逆転する事件が起きました。

■国連加盟めぐり対立

 1971年(昭和46年)、国際連合(国連)の安全保障理事会の5つの常任理事国の一つである「中国」の座が、それまでの中華民国から中華人民共和国に入れ替わったのです。第2次大戦を経て国連が設立されたとき、中国の代表権は中華民国にありました。

 ところが、国民党との内戦に勝った共産党が中国大陸を支配したことで、中国の圧倒的多数を実質的に代表するのは中華人民共和国になりました。国連総会で、中華人民共和国を中国の代表として認めるべきだという提案が毎年のように出されていました。

 これに対して米国や日本は反対を唱えました。しかし、事実上、台湾しか統治できていない中華民国が「中国全土を代表する政府」とするのは無理がありました。次第に圧倒的面積と多数の国民を擁する中華人民共和国こそが中国の代表であるという国際世論が形成されるようになっていったのです。

 国連での中国の座が入れ替わった後、中華人民共和国と国交を結ぶ国が増えました。やがて米国も日本も中華人民共和国との間で国交を結びました。これに対して台湾は、中華人民共和国と国交を結んだ国には国交断絶で応えました。台湾は世界の中ですっかり孤立してしまったのです。

 日本は1972年(昭和47年)に中華人民共和国日中共同声明に調印して国交を樹立。1978年(昭和53年)に日中平和友好条約を結びました。冷戦下の国際政治情勢の変化に対応したものでした。

 長年、台湾との関係を大事にしてきた日本にとって、その扱いを巡って複雑な状況が生まれました。中華人民共和国は「台湾は不可分の中国の領土である」と主張しましたが、日本は即座にその主張を認めるわけにはいきませんでした。「その言い分はわかった。その気持ちは尊重しましょう」と反応せざるをえませんでした。

 つまり、日本政府としては「(中国の主張は)正式には認められないよ」というスタンスでした。それには先例がありました。米国も台湾に配慮して、「(中国の主張には)留意します」(take note)という態度にとどめていたのです。

 これは余談ですが、日本のメディアなどは台湾の国民党トップを「総統」と表記します。これは台湾での表記をそのまま日本語として使っているのですが、台湾では「プレジデント(大統領)」という意味があります。しかし、日本語で「大統領」と訳してしまうと中華民国を「国家」として認めることになります。そこで、台湾の表記をそのまま使っているのです。これは中華人民共和国政府に配慮した表現として、現在まで踏襲されています。

■独裁から民主化

 国際的な孤立を深める中、台湾は国民党による独裁政権が続いてきました。ところが1975年(昭和50年)、戦後を率いてきた蒋介石総統が死去すると、次第に民主化への道を歩み始めるようになりました。

 蒋介石総統の死去後、副総統によるリリーフ登板を挟んで、1978年(昭和53年)には蒋介石元総統の息子の蒋経国が総統に就任しました。蒋経国総統は、国民党が台湾に移った時から発令していた戒厳令を解除しました。

 さらに大陸から移り住んだ「外省人」による支配に終止符を打ち、後継者に「本省人」の李登輝を選びました。やがて1988年(昭和63年)に蒋経国総統が死去すると、李登輝副総統が総統に就任します。初めて本省人のトップが誕生したのです。

2000年5月20日、台湾の民主化に道筋をつけ総統府を去る李登輝前総統(左)と、見送る陳水扁新総統。政権交代は平和裏に実現した=共同
2000年5月20日、台湾の民主化に道筋をつけ総統府を去る李登輝前総統(左)と、見送る陳水扁新総統。政権交代は平和裏に実現した=共同

 続いて李登輝総統は見える形で、制度を変えてしまいました。台湾には国会にあたる「立法院」と総統候補者を指名する間接選挙を行う「国民大会」がありました。このうち総統の決め方を1996年(平成8年)から住民による直接選挙方式に切り替えました。

 国民大会というのは国民党の議員によって構成されてきました。戦前から議員を務めてきた実力者らは高齢化が進み、必ずしも機能しなくなっていたからです。李登輝総統は党内の反対を抑えてこの制度を廃止してしまいました。さらに国民党一党独裁を改め、野党の存在を公式に認め、複数政党制を実現したのです。

 1996年の選挙で李登輝総統は圧勝し、2000年(平成12年)までの4年間の任期を務めました。民主化を主導した李登輝総統は、長期政権を維持しようとは考えず、次の総統選挙には立候補せずに引退しました。

 後継者選びの総統選挙では、野党の民進党民主進歩党)の陳水扁が当選しました。平和裏に政権交代が実現したのです。陳水扁総統は2期8年務め、2008年(平成20年)の選挙では今度は国民党の馬英九が勝利。2012年(平成24年)に再選を果たしました。台湾の人々は政権交代を通じて、自らの将来を選挙で選択するという体験をしたのです。

 ところが1996年に台湾の住民が直接選挙で自分たちの代表である総統を選ぼうとしたことに中国は神経をとがらせます。直接選挙で代表を選ぶということは、事実上の国家と同じ選挙制度を意味しています。

 中国にとっては、「中国はひとつ」であり、正統政府は自分たちだけであるという考え方を持っています。当時の総統選挙は、台湾が中国からの独立を図っているように受けとめたのです。

台湾海峡危機に際して米国は空母2隻を派遣。そのうちの一隻、インディペンデンスは1996年3月16日、中国のミサイル演習に対抗して台湾東方の海上で訓練を実施した=共同
台湾海峡危機に際して米国は空母2隻を派遣。そのうちの一隻、インディペンデンスは1996年3月16日、中国のミサイル演習に対抗して台湾東方の海上で訓練を実施した=共同

 中国は台湾に対する警告として、軍事演習を実施し、台湾の海上にミサイルを撃ち込みました。さらに台湾海峡側の中国大陸沿岸で、台湾を想定した大規模な上陸演習も行いました。それは「台湾が独立しようと動くことがあれば、いつでも攻撃して阻止するぞ」という明白なメッセージでした。

 台湾周辺の緊張に対して、米国は2隻の空母を周辺海域に派遣し中国をけん制しました。そのうちの1隻の名前は、なんと「インディペンデンス(独立)」でした。米国が意図していたかどうかはわかりませんが、あまりにタイミングが良すぎます。中国と台湾の軍事衝突を回避することができましたが、これ以降、中国は台湾の独立を武力で阻止するためには、米軍の介入を防がなければならないと考え、海軍力の増強に取り組みました。

 たとえばマカオの会社がウクライナでスクラップ同様だった旧ソ連の空母を洋上カジノにする名目で購入後、いつの間にか中国政府が手に入れて空母に仕立ててしまいました。今後もさらに増強を進める計画です。日本の尖閣諸島を含めてアジアの海域の戦後秩序を揺さぶっているといえるでしょう。

 さらに2005年(平成17年)には、「反国家分裂法」を制定しました。「国家を分裂させるような動き」があった場合には、非平和的な手段を使ってでも(台湾独立を)阻止すると規定しているのです。

■今秋のAPEC控え駆け引き

 現在の馬英九総統は穏健派です。台湾の「独立」については慎重な態度をとり続けています。2008年(平成20年)に総統就任後、三通政策(中台の通信、通商、通航の開放)を本格実現するなど、中国側との協調路線を取ってきました。中国側は、親近感を持って今後の関係改善に向けて交渉ができる相手とみているようです。

 というのも、第2次大戦当時、中国共産党と国民党は対立関係を超えて抗日戦に臨んだ歴史があるからです。これを国共合作といいます。当時の関係を復活させ、国共合作によって新たな経済・政治問題にあたろうという考えがあるのではないかとみられています。

 台湾と中国との経済関係は一段と強まっています。中国との貿易抜きには台湾経済は成り立ちにくい環境ができ、気がつくと中国の経済圏にすっかり取り込まれているといえるかもしれません。

台湾の馬英九総統は、中国との新たな関係を築くため、どのような一手を打つのか=総統府提供
台湾の馬英九総統は、中国との新たな関係を築くため、どのような一手を打つのか=総統府提供

 一方、台湾出身者の多い野党の民進党にしてみれば、「中国にのみ込まれては大変だ。独立を維持しなければ」と危機感を強めているのも事実です。台湾の政治では、中国との関係構築を巡って、国民党と民進党の対立構図があるといえるでしょう。

 今年秋、中国・北京で開催が予定されているアジア太平洋経済協力会議(APEC)に、台湾から馬英九総統の出席も予想されます。水面下では、国際経済の舞台で認めてもらいたい台湾と、台湾への影響力を強めながらも関係改善を図りたい中国との間で駆け引きが展開される可能性があります。

 APECで馬英九総統の肩書がどのように紹介されるのか。中国の習近平国家主席との会談が行われるかどうかが重要なポイントになるでしょう。

■テレビが映す反日、映らない本音

 中国と台湾の政治・外交面での「雪解け」は、第2次大戦後に中台との複雑な外交関係を保ってきた日本のアジア外交にとっても大きな影響を及ぼす可能性があります。

 日本から見ていると、中国では反日を強硬に唱える人々が多く、台湾には親日的な人々が多いという印象を持つかもしれません。

 実際には、中国に関しては、テレビカメラなどメディアの前にいる時の人々の姿勢と、個人的な意見には予想以上に開きがある場合もあります。あれだけ反日デモを繰り返した中国から、今や日本の温泉地、電気街に大勢の中国人観光客が訪れているのです。

 日本の文化や製品に対するファンが増えているのも事実です。必ずしも、テレビ画面から伝わってくる映像だけでは、日本に対する本音を判断できない難しさがあることを知っておいてほしいのです。

 中国と台湾が新時代を築くために歩み始めた次の一歩はどこへ向かうのでしょうか。東アジア情勢から目が離せません。=一部敬称略