藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分で済ます、自分のこと。

葬式は、要らないで耳目を集めた島田裕己氏の新刊。
「葬式は残されて生きている人たちのもの」と他を憚らない発言の同氏だが、さらに論旨は進んでいる。
氏いわく「家族葬など簡素化が進む背景には、葬送で儲もうけようとする人たちへの「人々の静かなる抵抗があるような気がする」とのことだが、抵抗というまででなくとも、派手な式典や高額な戒名にどれほどの意味を見出すのか、という点で現代人の宗教心というのは相当薄れてきているのは間違いないと思う。
故人を悼む気持ちさえあれば、何も多勢で過分な花に囲まれたセレモニーは何も必須ではない、ということがついに戦後の日本でも価値観として大成を占めるようになってきたのだろう。
「過剰・過分・華美」をある意味目標として目指してきた戦後の高度成長文化は、いよいよ本当に終わりつつある。
これからがいわゆる「熟成の時期」であり、本当に"必要なこと"とか"豊かさとは何か"ということが本音で語られ、実践される時代に入るに違いない。

本来は"0葬"にするかどうか、は生前の本人が決めればいい話であり、後から親族や周辺の人々が意見することすら僭越というものである。
つまり「自らの最期」については、これからは自分の意向を記録し、またそのための手間賃も自分で工面して往く、というのが社会人のマナーになるのだろう。

ようやく「それ」が終わって自分の人生は本当の意味で終了、となるわけでこれまで長い間「血縁」とか「血筋」とか「家」というものにむしろ縛られてきた文化が、ようやく一個人としての考え方こそが尊重される事態に入ったのだと思う。
自分も"0葬"で大いに結構だけれど、そこに至るまでに自らの周囲を身綺麗にしておきたいものだと思う。

島田裕巳氏、新刊「0葬」で提案
遺骨引き取らない究極の形

『葬式は、要らない』(2010年刊)で論議を巻き起こした宗教学者島田裕巳氏(60)が、今度は『0ゼロ葬』(集英社)を著した。簡素な葬儀どころか遺骨すら引き取らないという、究極の葬送を提案する驚きの書だ。

 島田氏は形式的で高額な現代の葬式のあり方を批判し、簡素化や不要論を提起してきた。新著でも、葬儀や墓に「資本の論理」が入り込み、数十万〜数百万円もの費用がかかる実態を紹介。家族葬など簡素化が進む背景には、葬送で儲もうけようとする人たちへの「人々の静かなる抵抗があるような気がする」と述べる。

 新著が衝撃的なのは、遺骨全部(全骨)を火葬場の処理に任せ、引き取らない「0葬」を提案している点だ。氏によれば、遺族は東日本では全骨を引き取るのに対し、西日本では3分の1程度であり、残りは火葬場などが処理している。ならば理屈上は、全骨処理してもらってもおかしくはなく、それで遺族は墓の確保が不要になるという。

 しかし、それでは死者を粗略に扱うことにならないか。氏は「日本人は骨に対する執着・信仰があるというが、本当なのか」と疑う。日本では、埋め墓と詣まいり墓の両墓制を取り、詣り墓にだけ参る慣習も一般的だった。遺骨を大切にするという「常識」は、戦争で膨大な戦没者が出たために遺骨への思い入れが強まったことと、火葬の普及が重なったために「戦後に出来上がった」ものだという。

 東日本大震災を経た現在は、「死者と生者の絆」が見直され、きちんと葬ってもらえない「無縁死」も問題となっている。0葬の方向性はこれに逆行するかに見えるが、「死者との交わりを大切にするのは東北の地域性にもよる。無縁死が問題だというが、これを防ぐために日本人が積極的に行動したとは思えない。むしろ無理な人間関係作りを煩わしいと感じ、無縁化してきたのが都市の人々。そうした人たちにかなった葬送も必要になる」。

 また島田氏は、葬送の簡素化には、日本人の宗教観の変化も反映していると指摘する。伝統的に葬儀を担ってきた仏教では、生老病死を「四苦」と捉え、苦しみの多い現世から離れ、極楽浄土を求める厭離穢土おんりえど・欣求浄土ごんぐじょうどの信仰を培ってきた。しかし、長寿化が進み、「大往生」の時代になった今、「多くの日本人は自分が十分生きたと思い、現世よりも浄土がいいとは思えなくなっている。四苦のうちの『生』は苦ではなくなっている」と言う。

 氏は、皆が0葬にすべきだというのではなく、「0葬を考えることで、各人が本当に何が重要で、何が余計なのかを見極めてくれれば」と話す。葬送の簡素化は寺には経済的打撃だが、「仏教は無常を語るのだから、0葬の方向性の方が本来であるはず。仏教も歴史と共に変化するもので、葬式仏教とは別のあり方が見直されていくと思う」。(文化部 植田滋)