ついに、記憶媒体の廉価が進み、「ある閾値を超えて」、あらゆるものが記憶・記録される時代に突入している。
これまでは記憶することのコストが圧倒的に高かった。
だから「忘れられる権利」は問題にならなかったが、今や「全てが記録される時代」になった。
既成の概念は変わるもので(いわゆるパラダイムシフトだろう)、「記録に留められるべきものかどうか」というグレーゾーンの判定が問題になる時代が訪れている。
これまでの「記録することが大事」という常識の正反対の「記録されないべき存在」が"むしろメジャーになってきた"というのは、デジタル社会がもたらした驚天動地の現象である。
「"記録"は、もう現代では必要な作業ではなく、自然な現象になりつつある。」
とはいえ、記録されることが圧倒的に力を持ち、しばらくはその流れに逆らうのは相当なパワーを必要としそうである。
BBCのテクノロジー記者は「言論の自由を何よりも重要視する米国側と個人が自分の情報を管理するべきと考える欧州側」との間で、「忘れられる権利についての文化上のギャップがある」(BBCウェブサイト、15日)と書いた。
もうこれからは「記憶されたおすしかない社会」が訪れる予感の中で今回の欧州司法裁判所が出した判断は非常に示唆的である。
アナログで鍛えた先進国が、今度はデジタルでは同様の轍を踏まず、ある種の「メディアの暴走を抑制する」という知恵が働いているようにも思う。
片方に偏らず、バランスの取れた議論になるのではないだろうか。
グーグルに「忘れられる権利」を求める欧州
欧州連合(EU)の最高裁判所となる欧州司法裁判所(CJEU=Court of Justice of the European Union、ルクセンブルク)が13日、検索大手グーグルに対し、EU市民の過去の個人情報へのリンクを検索結果に表示しないように命じる判決を下した。「忘れられる権利」をめぐって世界で初めてグーグルを相手に勝訴した2011年の判決につぐ、大きな判例だ。多数の削除要請が殺到すると見込まれる中、グーグル側は要請に応じるための体制作りに「数週間かかる」としている。判決には「表現・言論の自由の侵害だ」「歴史を書きかえることになる」という批判が出た一方で、「個人が自分の情報を取り戻すことができる」と好意的に見る声もあった。(在英ジャーナリスト&メディアアナリスト 小林恭子)
あるスペイン人市民の抵抗
バンガルディア紙のウェブサイト
グーグルは欧州では特に人気が高い検索エンジンだ。スタットカウンター社によると、市場の93%をグーグルが占め、ビング(2・4%)、ヤフー(1.7%)を圧倒している。
検索エンジンは情報収集には非常に便利だが、自分にとって不都合な情報がネット上に存在した場合、誰かが自分の名前を検索キーワードとして入れるたびにその情報が表示されてしまう場合がある。ネットは「忘れてくれない」性質を持つからだ。
自分にかかわる特定の情報をネット上から「消す」ことは可能だろうか? スペイン人マリオ・コステハ・ゴンザレスさん(59歳)は、過去情報の削除を求めて立ち上がった一人だ。
1998年、スペインの新聞「バンガルディア」はゴンザレスさんが社会保障費を未払いし、回収のために不動産を競売に付したという記事を掲載した。その後、ゴンザレスさんは未払い分を処理し問題は解決したが、同紙のウェブサイトには現在も当時の記事が掲載されている。このため、ゴンザレスさんがグーグル検索で自分の名前を入力すると、16年前の未払い問題が表示結果に上ってくる。
2010年、ゴンザレスさんはバンガルディア紙とグーグル・スペイン社および米本社に対し、情報の削除を求める訴えをスペインのデータ保護局に起こした。保護局はバンガルディア紙による未払い問題の報道は「合法」としてゴンザレスさんの訴えを退けたが、グーグルに対しては表示結果に出ないように対処するべしとした判決を出した。これを不服としたグーグル側がスペインの高裁に控訴し、欧州司法裁判所に判断がゆだねられた。
レディング欧州委員会司法・基本権・市民権担当副委員長はフェイスブックのページに判定の感想を書き込んだ
13日の判定 で、CJEUはグーグルに対し、問題となったゴンザレスさんの個人情報を表示結果に出さないよう命じた。CJEUは欧州の最高裁の役割を持つので、最終的な司法判断が下ったことになる。ネット上のプライバシー保護を提唱してきたビビアン・レディング欧州委員会司法・基本権・市民権担当副委員長は、判定の発表後まもなく、自分のフェイスブックのページに「欧州市民の個人データ保護についての明確な勝利だ」と書き込んだ。
ネットのプライバシー保護を重要視する欧州
CJEUの判定の元になったのが1995年に発効した「EUデータ保護指令」(個人データの取り扱いにかかわる個人の保護および当該データの自由な移動に関する指令)だ。「指令」とはEU加盟国の目標達成義務を指す。
CJEUによれば、グーグルの検索エンジンはゴンザレスさんの個人情報を「取り出し、記録し、組織化し、蓄積」し、検索結果として表示することでネットの利用者に「公開し、使えるようにしている」。グーグルはデータの「管理者=コントローラー」の役目を果たしている。
判定は、グーグルには市民の基本的権利や自由、特にプライバシーを維持する権利を守るという、データ保護指令に基づいた「責務を順守する必要」があるとして、個人が不都合と考える自分についての情報を検索表示結果に出さないように命じた。
一方、判定は利用者の知る権利とプライバシー保護には「公正なバランス」が必要だともいっている。公人の場合は利用者の知る権利が優先される。
グーグルはCJEU判定に「失望した」とするコメントを出した後、検索体制を変更するための調整には数週間かかる、と述べている。
近年、EUはデータ保護についての規制を厳格化するための取りまとめ作業を続けている。柱になるのが「忘れられる権利」だ。
2012年には、構成国による国内法化を待たずに直接効力を有するようにするための「EUデータ保護規則案」の提案が作成された。今年3月には欧州議会が提案を可決。欧州理事会などでの議論を経て、年内に成立の見込みだ。実施は2017年以降になる。違法行為を働いた企業には最大で年間売り上げの5パーセントか1億ユーロかでより大きな額が罰金として科せられる可能性がある。
「忘れられる権利」をめぐって欧州の市民がグーグルに初めて勝訴したのは2011年。若いときに撮影したヌード写真が30万以上のホームページにコピーされたことから、フランスの女性がグーグルを相手取り、写真の削除を求めて訴訟を起こした。世界で初めて忘れられる権利が認められた画期的な判決となった。
賛否両論が百出
CJEUの判定に対する見方は大きく二つに分かれた。
検索結果に表示されなくなる状態は「言論の自由の侵害だ」(検閲に反対する英「インデックス・オン・センサーシップ」、13日)とする反対派と「これは検閲ではない。個人が自分についての情報を取り戻すだけだ」(セキュリティー専門家、リック・ファーガソン氏、同日のBBCラジオの番組内)とする支持派だ。
欧州司法裁判所による13日の判定を伝えるリリース
BBCのテクノロジー記者は「言論の自由を何よりも重要視する米国側と個人が自分の情報を管理するべきと考える欧州側」との間で、「忘れられる権利についての文化上のギャップがある」(BBCウェブサイト、15日)と書いた。文化的な考え方の違いを横に置いたとしても、実施には問題が山積だ。個人がある情報の表示を取り除いてもらうように検索エンジンに依頼するとき、本当にその人が当人なのかどうかをどうやって確認するのだろうか。不都合な事実を隠したい政治家、大企業の経営幹部などに悪用されてしまう可能性もある。
また、どの情報を取り除き、どの情報を消さないかの判断がグーグルに一任されており、これ自体も問題となりそうだ。
しかし、現在でもグーグルやそのほかの大手検索エンジンは一定の情報を通常の検索行為では表示されないように処理している。例えば違法行為につながるような情報(著作権物の違法ダウンロード、児童ポルノにかかわる情報など)や性犯罪の犠牲者の個人情報などがこれに該当する。
欧州ではグーグルに対する逆風が吹く。ドイツのある閣僚は、これほど大きな存在になったグーグルは分割されるべきではないかと主張した(フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙、16日)。ドイツ政府には米企業グーグルを分割する力はないが、欧州の「ネットの巨人」グーグルに対する不満感を表す発言だった。
ところで、先のゴンザレスさんはグーグルに対する訴訟には勝ったことになるだろうが、「忘れられる」どころか、この一件を通じて欧州では有名になってしまった。なんとも皮肉な結末である。
2014年05月20日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun