藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

忙中考あり。

糸井さんのブログより。
二十年も前は、分刻みで仕事に追われているビジネスマンを見てかっこいいなーと思ったものである。
いかにも"仕事している空気"を纏っていて企業戦士、という言葉も今は聞かれなくなった。
忙しいことに慣れてくると、感覚がマヒしてきて「なにゆえ忙しいのか」ということを考える思考力がなくなってくる。
そのうち「忙しくないと」不安にもなってくるからワーカホリックとはよく言ったもので、しかもたちが悪いのはそうしている当人が「どうだ」という威圧感を持っているのが鬱陶しいものである。

タイムマネジメントとか、昔からそういった分野の学問や定説も数多くあるけれど「忙しい状態にいること」と「優先せねばならないこと」はしばしば混同される重要な問題である。(タイムマネジメント理論の多くはこの話ばっかりだ)

自転車ではないが、社会人というのは「一度走り出したらなかなか止まれない」ものだけれど、自分の今の仕事の中でも、あるいは将来の仕事でも、さらには職業の選択とか人生の岐路とか、いろんな場面で自分の進路を確かめることはしておきたいものだと思う。
息切れするほど走ってきて気が付いたら社会人三十年なんていうのはそんなに珍しい話ではない。

毎日の積み重ねが一体どこへ向かって伸びていくのか、できれば一日に風呂に浸かっている数分でも自問してみたらどうだろうか。
案外毎日のことが、案外「ちょっとOBだな」なんて気が付くことも多い。
風呂の時間はそんなことに使ってみてはどうだろうか。
 

・「おとうさんは忙しいから」と言って、
 今日が終わった。
 なにが忙しいのか訊かれたら、
 たぶん、うまく答えられなかったと思う。
 
 「おかあさんは忙しいから」と言って、
 今年が終わった。
 なにが忙しいのかよくよく考えたら、
 たぶん、よくはわからなかったと思う。

 忙しいから、
 忙しいから、
 忙しいからと言いながら、
 毎日が終っている。
 忙しいから、
 忙しいから、
 忙しいからとあわてながら、
 わたしはなにをしてるのだろう。

 思えば、ずっと忙しいらしい。
 生まれてから死ぬまで、
 もしかしたら、ずっと忙しくて、
 なんにもできずに終ってしまうのかな。
 
 「あなたのそのヒマを売ってもらえませんか」
 忙しいひとが、忙しそうにたずねていた。
 ずっと公園で昼寝していた男が、
 「いいよ、いくらでも持ってってくれ」。
 忙しそうなひとは、売ってもらったヒマを抱えて、
 大急ぎで走り去っていった。

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 じぶんのことだけじゃなく、
 まわりを見渡しても、みんな忙しそうだ。
 時間の勘定のしかたを、
 たぶんまちがっているのだ。
 なんか、忙しいと言うたびに、
 時間が減っていくような気がする。
 忙しいの反対は、「たのしい」なのかもしれない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そうかと思えば、ヒマをつぶすのに忙しいひともいるよね。