藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

止まれない自分たち。

その(米国の)友人はよく「自分のキャリアは」という。
学生時代はこんなこと、大学院ではどう、社会人になってからは云々。
気が付けばキャリアの話ばかりしている。
本当はそのキャリアで何をしてきたかを話すべきなのに。
そして「これからのキャリアは」とまた語る。
夢を語るのかキャリアを語りたいのか分からなくなってくる。

ひょっとしてキャリアを追いかけていないと不安なのではないか。
ずっと農業をしている九州の大先輩は「ワシのキャリアはの」とは絶対言わない。
「これも作ったし、あれも作れる。あれは止めた。」とは言うけれど。
キャリアは自分の軌跡ではあるけれどそれ自身が仕事をしてくれるわけでもないし、自分の人間性を「それ」が判定するわけでもない。
キャリアという鎧を身に着けていないと自分が説明できないのかもしれない。

そんな目で新聞を見てみれば、特にイベントが目についてくる。
一面の政治や経済のニュース。
経済欄ら国際面の報道。
みんな「今回の結果」と「次のイベント」のことばかりに見えてきた。
為替、景気、雇用、貿易収支、財政赤字、どれについても本当の長期で考えた記事よりも「次の一手は」というものが実に多い。
つまり自分たちの興味はそこにあるということなのではないか。
だからマスコミがそればかり報道するのだ。
本当の自分のこれからを長期で考えるとか、自分の過去をずっと昔まで遡って振り返るとか、一見ぼやっとしていてすぐに結論の出なさそうなことがずい分霞んでしまっているようだ。

例の「緊急度と優先度の取り違え」である。

いつの間にか"現実"ってやつに追い回されないように気を付ける工夫が必要だと思う。