藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

シンプルになったテーマ。


冨山さんの「それ、会社病ですよ」より。
街中の酒場でも「ピケティの意図するところはさ…」としばしば耳にするくらい、ホワイトカラーの間では話題になっている。

基本構図は、イノベーションを拒否して貧しく平等になるか、結果的な格差は甘受するけれど豊かになるか、なのです。

 結局のところ、ピケティは問題に対して現実的な処方箋を出していません。あるのは、自らも語る世界同時資産課税という夢物語。これは同じく分配の平等を目指した古い共産主義思想の「世界同時革命」と同じ結論です。

今の世の中、シンプルにこの「どちらかの間」でしかない、というのは自分たちが日常実感として感じていることの本質であり、結局「この間のどこか」でもう少し右とか左とかを言い合っているように思う。
どちらか一方に極端に寄った解決策は、今の世界の政治システムを見てもあり得ないのだろうと直感的に感じる。

 そもそも経済学は「全体」の成長を分析する学問です。「全員」の豊かさ、すなわち分配の問題は政治の責任領域。ピケティの指摘が敢(あ)えて意味を持つとすれば、政治的命題として、「経済成長、そして自由と人権を犠牲にせず、現実世界で実効的な富の再分配システムを見出せるか」という、ノーベル賞1万個分くらいの古典的大難問。安易にその答えが存在すると思わないほうがいい。

政治が「経済成長、自由と人権を犠牲にせず」「現実世界でできる富の再分配システム」を見い出す、というのは恐らくどこの国の政治家もが腐心しているテーマそのものであり、これが政治の本命なのだ、というところに先祖返りしてしまう。

社会は大規模化し、ネットでグローバル化してしまったが、その上で「そもそもの政治」がいかに目的に向かって実現されるのか、というまあ「当たり前の主題提起」が今話題になったということじゃないんだろうか。

当たり前の主題だけれど、その方法はまだ確立できていないわけなので、自分たち大人は真面目にこのことを考える必要があると思うのである。

単なるガス抜きではないか?
ピケティを曲解する人たち

 関連本も続々と登場し、ピケティ人気は今のところ、まだ続いているようです。彼の本については、専門家の間でもさまざまな議論があるわけですが、私がひとつ気になっているのは、ピケティを「曲解」して、自分たちの都合のいいように解釈している人たちが少なからずいることです。
 例えばピケティは、労働生産性の上昇率より資本生産性の上昇率が高くなり、それが格差を広げる、と言っているわけですが、これをもって「やっぱり格差が問題だ」「日本でも格差が拡大している」「働かない資産家が資産を使ってますます儲ける」といったピント外れの極論が進んでいる。
 これは彼自身も認めていますが、ピケティの言う資本には純粋なキャピタルだけではないものが入っています。ヒューマンキャピタル(知的資本)です。フェイスブック創業者のザッカーバーグは巨額の資産を持っていますが、彼がどうやって資産を手にしたのかといえば、ビジネスを思いついたからです。知的労働が生み出したのが彼の富なのです。
 なのに、ピケティの分析では、これも資本にカウントされてしまう。そしてザッカーバーグたちは、とんでもなく働いています。ここでの格差の原因はイデオロギーとしての資本「主義」や搾取ではありません。
 もし資産が格差拡大をもたらす、とピケティ流に考えるのであれば、地価も株価も過去最高だったバブル絶頂期こそ、日本では最大格差だったはずです。そして、その後のデフレで資産価値は下落、格差は縮小した。格差解消という観点では、「失われた20年」は、「黄金の20年」だったことになるわけです。

「曲解」について私が危うさを感じるのは、格差はあらゆる社会経済システムに必然のものだからです。社会発展の源であるイノベーションの起きる場所によって生産性の格差、すなわち富の生成には格差が起きてしまう。アメリカの格差を声高に叫ぶ人がいますが、私が住んでいた20年前よりも、今の平均的なアメリカ人のほうがずっと豊かになっています。基本構図は、イノベーションを拒否して貧しく平等になるか、結果的な格差は甘受するけれど豊かになるか、なのです。

 結局のところ、ピケティは問題に対して現実的な処方箋を出していません。あるのは、自らも語る世界同時資産課税という夢物語。これは同じく分配の平等を目指した古い共産主義思想の「世界同時革命」と同じ結論です。

 そもそも経済学は「全体」の成長を分析する学問です。「全員」の豊かさ、すなわち分配の問題は政治の責任領域。ピケティの指摘が敢(あ)えて意味を持つとすれば、政治的命題として、「経済成長、そして自由と人権を犠牲にせず、現実世界で実効的な富の再分配システムを見出せるか」という、ノーベル賞1万個分くらいの古典的大難問。安易にその答えが存在すると思わないほうがいい。
 今回のブームは、現状に不満な人たちに、ある種のガス抜きとして作用したのでしょう。しかし、本当の意味で人々の実感を伴うものでなければ、リアルな社会では所詮は長続きしません。このブームも、その道をたどると私は見ています。