藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

柔軟性こそ。

糸井さんのブログより。
美味しそうな料理を食べる大人に、実はそれを食べたい子供が「大人なんて!」というCMがあったが、自分も子供時代には大人を対立軸に見たものだし、いい年になった今でも目上の堅物な意見には「ジジイなんて」と思うこともある。
一方自分は年下の目からは「大人ぶりやがって!」と思われているだろうことは想像に難くない。

でも大人になっても子供のように純真で柔らかい思考はあるものだし、逆に子供でもずっと成熟した考えで大人を見ている子たちはいるものである。

子供か大人か、というのは結局考える上での「対立軸」なのだろう。
物事に対してリベラルな意見や考えは「子供っぽい」と言われ、また保守的で変化を認めない姿勢は「大人な」見方に分類されるのではないだろうか。

実は年齢的に大人か子供か老人かということは関係ないのだとすれば、自分たちはどちらにもなれる。
むしろ、子供にこういう話をした方が彼らは柔軟だから、瞬時に大人のマインドに変化するかもしれない。

いつまでも舞台の上にいるためには、子供の心、若者の心、大人の心、老人の心を瞬時に理解して、その心境になってみるような心得が必要なのではないだろうか。

年を取ればとるほど経験値が上がり、若者の意見を聞いても「その先の正解が見える」ような場面はよくあるものだが、それこそが「知恵であると同時にバイアス」でもあるのだろう。

いつでも童心を忘れませんように。

・「大人はわかってくれない」というのは、
 基本的に、こどもが大人になる前に感じることです。
 「わかってくれない」というのは、
 意見が対立しているということです。
 
 巣立つ前の、はばたく力を身につけたひな鳥が、
 親鳥に投げつけるようなことばです。
 そういう気持ちになるからこそ、
 新しい世代のひな鳥は、新しい巣をつくって
 生きることができるわけです。
 新しい卵を生んだりそれを孵したりしていると、
 こんどは親鳥になります、じぶんが。
 
 青春の音楽というものは、たいていが、
 「大人はわかってくれない」が底流になっています。
 大人や、大人たちがつくっているものは、
 「おれたち・わたしたち」のセンスとちがいすぎるので、
 とても不愉快であると怒っていることもあるし、
 そんなものはぶち壊すべきであると叫ぶこともあります。
 ついでに、おれの思慕している異性がおれを選ばない、
 というようなことについても、腹を立てたりします。
 まぁ、そういう反抗心のようなものがないと、
 「ずっとパパママと幸せに暮らそう」
 というような内容の歌になってしまいますからねー。
 
 歌そのものは、ずっと同じ歌として残りますが、
 それをつくった人間や、その環境は変化します。
 つまり「大人はわかってくれない」と叫んだひな鳥も、
 配偶者と家庭を持ったり、こどもが生まれたりして
 「大人」として生きていくことになるわけです。
 そのとき、「そうか、大人はわかっていたのに、
 わからないふりをしていたのか‥‥」と気づきます。
 「背に腹は代えられない」だとか、
 「あちらを立てればこちらが立たず」というような
 かつて「いやらしい」と感じたことばを覚えるころにね。
 
 大人が青春の歌をよろこぶのは、郷愁なのかもしれない。
 「そうじゃないんだけど、そうだったんだ」という
 欠陥だらけの反抗を眺めていろいろ思うためのね。
 ま、無理やりこどものままでいる人もいますけれど‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こどもと大人の他に、超大人という老人がいるのかなぁ?