藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

偽装考。

ここ数年、特に大メーカーとか一流ブランドの偽装騒ぎが多い。
自分たちが子供の頃には薬害とか公害の話は多かったが、大手の利益を出しているメーカーの偽装というのはあまりなかったように思う。
大手企業が数字欲しさにモラルを落としたのか、担当部署がノルマの締め付けのストレスで手を染めたのかは色んな見方があるだろうけれど、実は「いろんな製品のレベルが上がってきた結果」ということはないだろうか。

十年も前に耐震強度の偽装が話題になったが、中国の友人が「なんと行き届いた検査システムだろうか」と驚いていた。母国ではそんな耐震の基準などについては、まだまだ検査もモラルも行き届いていないということらしい。

つまり日本とかは相当色んな物の「品質基準」が熟成してきていて、かなりのレベルでクオリティが求められる社会になっているのじゃないか、などと思う。
4-50年前なら環境の基準も建築の基準もずっと緩かったし、また求められるレベルに付いてこられる企業もそんなに多くはなかったのではないだろうか。
今は製造業を筆頭に流通もサービスも、ユーザーは「いい加減」を許さない感じがするし、またそれに応えてさらに厳しい基準に挑戦する企業も多いのではないかと思う。
実際日本の飲食店の衛生管理なんて、後進国では求めるのも無理というものだろう。
公共交通機関のマナーとか、街中の衛生管理とか、お店でのマナーとか、そういうものがどんどん進化してレベルアップしているのが日本なのじゃないだろうか。

よく欧米の人たちが「過剰ではないか」とも言うけれど、それを求め、またそれに応えようとするところがこの国のよさではないだろうか。
数十年前には許されていたルーズさを厳格にルール化して守ってゆく姿はちょっと自慢していい国民性なのではないかと思うのだ。

それにしても、一時、一担当者に「魔が刺した」ということが、大企業の生命線を揺るがす昨今、ちょっと何をするのも躊躇してしまうくらいの怖さもある。
折角の「品質重視の文化」が委縮して消極姿勢ばかりにならなければいいのに、と少し心配である。