藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

現役礼賛。

物事を安直に始めてしまうのもいい。
やらなきゃ「何も始まらない」から。
けれど何事も「難しいぞ」と思うのもいい。
その方が準備できるから。
糸井さんのブログより。

「何一つ簡単なことはない。」
ない。確かにない。
「何か簡単なことって落ちてないかな?」と探しても見つからない。
結構難しい、ややこしいことばかりだ。
似た言葉に「何一つ儲け話などない。」てのもある。
何一つない。
"儲け話"の体をしている、落ちているものは大抵ニセモノである。
50年くらい生きてきてようやく分かった。(嘆)

でも何一つない簡単なことを、だからやってみて、そして少しでもその難しさをクリアしたら、「ちょっと特別」になれる。

「難しいことをやればやるほど特別になる」というのは「何一つ簡単なことなどない」という言葉に対する唯一の解決策だ。
つまり何でも「簡単なこと」はないから、じゃあ何でもやってみて、続けてみればどんどん特別な何かに変わっていける、ということだ。

つまりは「何でもやってみよう」ということが唯一の入り口でしかない。
沈思黙考、熟慮の果てに「手が出ない」というのは一番もったいないことだ。
しかも机上で解決できることってあまりない。

年とともに手足が鈍くなるのは、年寄り一流の言い訳なのじゃないだろうか。

・このごろ、じぶんの口から、何度も言ってることばは、
 「なにひとつ、簡単なことなんてないね」かもしれない。
 なんの説明も必要ないと思う。
 「なにひとつ、簡単なことなんてない」
 というだけのことだ。

 ある意味では「励まし」のことばとして、
 別の局面では、じぶんたちへの「戒め」のことばとして、
 こういうことを言っているように思う。
 
 しかし、これまで、こんなにこのことばを言っていたか。
 あるいは、こういうことを考えていたかというと、
 そうでもなかったんじゃないだろうか。
 昔のぼくは、なにかをもっと簡単だと考えていたのか、
 あるいは、簡単か複雑かなんて考えてもいなかったのか。
 理由はよくわからないのだけれど、
 「なにひとつ、簡単なことなんてないね」なんて、
 人やじぶんに言ってなかったことだけは確かである。

 簡単そうに見えることは、あんがい難しいものだし、
 難しそうに見えていることは、やはり難しいものだ。
 いやになるほど、難しいことばかりなのだ。
 悲観的になっているのとはちがう。
 すでに、解決までの糸口が見つかっていたり、
 途中の困難はあるが、きっとできる、
 と、見通しが立っていることもたくさんあるのに、
 「簡単なことではない」とあえて言ってるだけだ。

 これ、もしかしたら、老人臭いことなのかもしれない。
 若い人なら、もっと無鉄砲に
 「簡単です」と走り出してもいいようにも思う。
 ある確率で大失敗することがあったとしても、
 なにかのミスがあってあわてることがあっても、
 そういうことがあっても、ほんとうはいいのではないか
 ‥‥こんな気持ちも、実はある。
 
 「なにひとつ、簡単なことなんかないね」のぼくと、
 「簡単簡単っと言って走り抜いてしまえよ」のぼくは、
 実は、まったく同じ人物である。
 「なにひとつ、言い切れることなどないね」だね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
このところ眠くて眠くて、これ、春が来てるっていうこと?