藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

それが人生。

私の履歴書より。

自分をごまかすこと、は戒めているつもりでも「気に入ったフレーズ」を使うことはやめられない。

「人生は55から」
うーん。
なんて良いフレーズだろう。
まだ終わってなかった。
(というような一言を探して縁にするのはいかがなものか)

それにしても執筆者の安部さんの、父世代の人の言葉にしては実に先見性に富んでいる。
昭和初期とか大正時代くらいの生まれのはずだが(後で調べたら大正十年(1921年)だった)、まだ戦前で平均寿命も短かったはず。
(さらに調べたらなんと当時の平均寿命は男42!、女でも43歳!みじかっ。)

人生40年そこそこ、の時代に「人生なんて55歳からや!」と言い切る豪胆さはさすが創業者、と言いたくなる。
さらには

「あった方が良い程度のものならない方が良い。変えることを考える前に、何を変えてはいけないかを考えろ」と。これこそが吉野家吉野家たるゆえんだ。

吉野家の変わらなさはこんなところにあったのか。
さらに創業者が言うには渋すぎる一言。
もうその漂泊感すら漂う様子は、高倉健すら彷彿させる。

「たかが牛丼、されど牛丼」

多分、肝がすわり、けれど冷静でウイットに富んだ方だったのに違いない。

安部修仁(29)次代にバトン たかが牛丼、されど牛丼 挑戦と失敗、それこそが吉野家

 「映画のゴッドファーザーで言えば、お前はマイケルなんだよ」。2011(平成23)年末、還暦を超えたころ、私より約20歳若い人物に社長になるよう説得していた。うどん店「はなまる」を事業会社の吉野家に次ぐ利益を上げる会社へと育ててくれた河村泰貴君だ。私の同世代の同僚には280円牛丼の誕生、京樽再建、BSE(牛海綿状脳症)対策など、それぞれの立場で粉骨砕身し会社を支えた優秀な人材がいる。それを飛び越えることに彼は難色を示していた。

波除神社に河村社長(左)と碑を奉納した(8月31日)

 彼の気持ちはよくわかった。こっちは約20年も社長を務めたから、仮に社長を譲っても古参幹部は私の所に相談にやって来ると思っても不思議でない。その不安を払拭するためにあの名画を持ち出した。末息子のマイケルにトップを譲ったドンは以後、口出しをしなかったように「私も含め古参幹部も同様だ」と説明した。11年秋のことだ。

 年が明けた12年1月、東京・青山の料理店でサラダとサンドイッチの軽食を口にしながら彼の返答を聞いた。「覚悟を決めました」。彼は映画全3作を繰り返し観(み)たようで、社長業をとてもシリアスに受け止めていた。彼を口説くのに約3年。12年9月、社長を譲り会長となる。彼は43歳。私は62歳。彼もアルバイト出身。私が社長として初めて迎えた正社員の一人だった。

 13年5月、河村君が議長として初めて臨んだ株主総会では適切に株主の質問に答えて感心した。総会を終え、こう声を掛けた。「おまえもボトルの一本くらい置いている店があるだろ。今夜は俺をそこに連れてけ」。池袋の小さなバーで「頼むぞ」と乾杯する。

 そろそろ紙幅が尽きてきた。人生を振り返ると事実上の創業者で親父(おやじ)と呼ぶ松田瑞穂さんと吉野家再建に尽力された増岡章三先生の存在が大きかった。早世した実の父の記憶がないから、お二人を父に重ね合わせていたのかもしれない。

 本欄を読まれた読者に親父の言葉を至言と受け止める方が多くいらして嬉(うれ)しかった。なので親父の訓話を紹介したい。「55歳からが勝負だぞ。そのために20代、30代、40代なりの生き方がある。社会人として影響が小さいうちに多くの挑戦と失敗を重ね、能力と信頼を蓄積し55歳から花を咲かせればいい」

 20代で吉野家に入り、30代で倒産を経験、40代で社長。同世代の同僚と小さな失敗から年相応の大失敗まで積み重ねたから55歳で遭遇したBSE禍の逆境も乗り越えられた。

 そして親父は「あった方が良い程度のものならない方が良い。変えることを考える前に、何を変えてはいけないかを考えろ」と。これこそが吉野家吉野家たるゆえんだ。

 「たかが牛丼、されど牛丼」

 親父が奮闘した創業の地、築地は移転問題で揺れている。8月末、吉野家はこれまでの感謝を込めて築地・波除神社に記念碑を奉納した。江戸時代の築地の埋め立ては難工事の連続だったが、社殿を作るとそれまでが嘘のように順調に進んだという。

 築地、豊洲だけでなく世の中が波除神社の御利益のように「災難を除き、波を乗り切る」ことを切に望み、筆をおく。ありがとうございました。

吉野家ホールディングス会長)

 あすから日本女子プロゴルフ協会相談役 樋口久子