藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

会議再考。

学生時代にはなかったけれど、社会人になって一番驚いたのは会議という習慣だ。
課の会議、部の会議、会社の全体の会議、取引先との会議。
もう会議だらけ。
会議の種類も「企画のプレゼンテーション」「経営計画のお披露目」 「規則の決定」「問題の解決」「何が問題かわからないけれど共有のため」とか色々ある。
会議のための会議とか。(笑)

会議は多くの人を拘束する。
だからその会議の目的は、「決議」「共有」「告知」「検討」などのいずれにあるのかをはっきりしておきたい。

「今日の集まりはこのためだぞ」というのは"集まり"の最低限の存在意義なのだと思う。

何も決まらない会議、とか
何も発言しない参加者、とか
焦点の定まらない会議、というのは相当な害悪である。

今日とか明日の会議について是非考えたい。

「会議が多くて大変だ」とほくそ笑む管理職の本心
日本企業に会議が多い5つの理由

上司からよく聞く「会議ばかりで大変」というセリフ、本心ではないかもしれません
「うちの会社は会議ばかりで大変だ」
これは、多くのビジネスマンからよく聞かされるセリフだ。特に管理職ともなると、会議に出席するのが仕事のようになり、本来の仕事をする暇がない……ということもある。では、なぜ企業にはこんなにも会議が多いのか。それにはざっと思いつくだけでも5つの理由がある。

1つめの理由は、「意思決定の基準と権限の範囲が明確でないから」だ。戦略自体が曖昧で、本人も事業の方針やあるべき行動・思考基準に対する理解度が低い場合、さらに何をどこまで決めてよいかが不明確な場合、一人(もしくは少人数)では意思決定をすることができない。そこで、集団的な合意を求めて会議を開くのだ。

2つめの理由は、「意思決定の影響範囲を正しく見積もれないから」だ。つまり、その決定をすることで他部署にどんな影響があり、どんな作業を依頼しなくてはならないのかが予測できないため、「情報漏れがないように」と、実際に関わってくる可能性のあるすべての部署と人を会議に招集することになる。関係部署の仕事をあまり知らないのが一番の原因だろう。

3つめの理由は、「情報共有を善とし、独断専行を悪とする文化があるから」だ。これは、多くの日本企業の組織に通底している思想である。何でもかんでも情報共有し、報連相を密に行うことが絶対的な善であるため、少人数で決定すると「勝手に進めた」と非難されてしまう。本当に働いている人ほど、「不必要なことまで共有するな」「関係ないメールのCCに入れるな」と言いたいのではないだろうか。

4つめの理由は、「俺は聞いていないと、へそを曲げる社員がいるから」だ。バカバカしい話だとは思うが、直接の関係ないことでも、情報を共有されないと不機嫌になるシニア社員は多い。現在では、上司・部下の間での年齢逆転現象も珍しくない。となると、年上の部下の機嫌を取るために、会議の場をあえて設定し参加してもらい、顔を立てるのだ。

5つめの理由は、「一人で決定することで自分の責任が重くなるのを避けたいから」だ。当然のことながら、そのプロジェクトが上手くいかなかった場合、責任は意思決定をした本人にのしかかる。しかし、「会議において総意で決めた」となれば、個々の責任は幾分軽くなる。弱気なリスクヘッジのひとつの形として、会議が開かれているのだ。

このように会議を開く理由を突き詰めていくと「なんてバカらしい!」と思われる方もおられるだろうが、みなさんとて無関係ではない。今は文句を言っていても、管理職になれば同じように「無駄な会議」を開き、出席するようになる。もはや会議を多用することは、企業において正しい行動文法になっているからだ。

気の利いたことが言える
管理職が出世する

そもそも、なんでも会議で決める企業の場合、管理職個々人に「意思決定をする能力(自分で決める能力)」が育成されていない。というのも、意思決定をしない上司の下にいれば、慣例として自分も意思決定をしない上司になるし、リアルな意思決定の成否を見る機会もないから、学ぶこともできない。影響範囲を見積もる力も、シミュレーション能力も身につかない。自分で決定する訓練をする機会がないのだ。特に、昨今は、コンプライアンス問題による社会的制裁が怖いので、独断専行は厳に慎むべきことということになっているから、ますます状況は悪化している。

さらに、これこそ真の問題とも言えるが、「会議に出れば、実質的にサボれる」という理由で、(本心は)会議を望んでいる管理職が多いのである。会議なるもの、自分が起案する僅かな案件を除いては、事前に勉強していく必要がない。(本来はそうであってはいけないのだが)さらに、ほとんどの議案は自分に直接関係ない事項だから、会議中は脳みその3分の1でも使っていれば十分務まる。つまり、難しそうな顔をしてその場に存在しているだけで「仕事をしているフリ」ができるのだ。

また、要領よく、省エネモードで出世したい人にとって、会議は都合のいいツールでもある。会議中は、潮の流れと上席の顔色を伺いながら、大勢に逆らわないように前向きなことを言い、自分にお鉢が回ってくるのは巧妙に避ける。どこの会社にもいる「会議の達人」だ。不思議なことだが、そういう人はたいした業績はなくとも、しっかりと出世する。「場の空気」と「上司の真の意向がわかる」という卓越した能力を持っている人だからだろう。

逆に、「仕事がしたいから」と言って会議をサボっていると、本当は良い仕事をしていても上司の覚えは極めて悪くなる。成果主義だから、仕事の成果だけで評価されるなどというのは幻想だ。特別な能力を持つ、幹部から覚えのめでたい僅かな人だけは少々会議をサボっても許されるが、そういう人でさえ、成果が上がらなくなれば、素行が悪いとやり玉に上げられ、即座に引きずりおろされる。能力に自信もないのにそんなことをするよりは、大人しく会議に出たほうがまし、というわけだ。

無駄な会議を撲滅する方法は?

もし本当に、無駄な会議をなくしたいと望むなら、意思決定ができる管理職を育成するしかない。経営理念や事業戦略を深く理解し、授権範囲をこころえ、個々人の能力や他部署の業務内容を把握する。そのうえで、衆知を集める必要のあることだけは会議を開く。意思決定の経験を積み、失敗を反省し意思決定に習熟する。そういう管理職が育ち、彼らがまた次の世代を育成する。この好循環なくして、無駄な会議を根絶することはできない。

阿吽の呼吸で調整しながら、誰にとっても痛みの少ない決定を探るのは、日本企業が得意とする手法だ。それを全否定するつもりはない。しかし、冷静に考えれば、無駄な会議にかけているコストは計り知れないし、そのやり方では管理職も成長しない。古くからの伝統にしたがって現状に甘んじるか、リスクをとってでも意思決定の能力を身につける管理職を養成するか。
どちらが正解かは自ずと見えていると思うのだが。
(構成/大高志帆)