藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

黙して語らず。

糸井さんが一年の目標に「人の悪口を言わないこと」を長らく上げていたという。
確かに。
何って「悪口を口にしている人の姿」ほど何か悲しく、みっともなく、浅ましいものはない。
他人のことを悪し様に「悪く」いう。
つまり悪意を持って他人を表現するわけで、そんな憎悪剥き出しの姿は見ていて気持ちの良いはずもない。

何かの意図、つまり戦略を持って「悪し様な発言」をするのならそれはそういうやり方だ。
とここまで書いて気づいた。

そうやって「意図して他人を悪く言う」というのは、それが自分の憂さ晴らしであれ、その後の自分の保身のためであれ、自己都合のエゴでしかなさそうだ。

他人の悪口を言わない、ということはつまりエゴを出さないということだろうか。

エゴとは「利己主義」だから"他人のことを考えずに自分のことしか考えるのは止めよ"
ってまるでお寺でよく聞いた講話と同じだ。

つまり仏教とかキリスト教とか(他の宗教)はそういうことを説いているのかもしれない。
結局は。
深いけれどやさしい。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・いまはやめたので、もう言っていいことにするが。
ぼくは、毎年の暮れにおろすじぶんの「ほぼ日手帳」に、
次の年の「誓い」を書きこむことにしていた。
そこにそう記したことは、だれにも言わず、
じぶんだけのこころにしまっておく。
たいしたことじゃない、野望でも目標でもない。

そのことばとは、「人の悪口を言わない」だった。
ひょっとしたら守れそうな約束である。
守りにくいことも、とてもよくわかる。
一年間、なんとかそれを守りきれたとしたら、
なかなかたいした年になるのではないか。
そんな期待もあった。

しかし、いつのまにか、その誓いは破られる。
いつも、ちゃんと、ぼくは人の悪口を言ってるのだ。
ただ、破ってしまってたとしても、
「人の悪口を言わない」と書きつけたことは憶えている。
じぶんが、新年にたったひとつだけ文字にした約束が、
「人の悪口を言わない」だったということは、
ぼく自身にとっては、とてもいいことのような気がした。
他にどれだけ大事なことがあったとしても、
それよりも「人の悪口を言わない」とした理由は、
実はよくわかってないのだけれど、
それを「できるかもしれない」と思えたことがよかった。

ぼくが、他の人たちにくらべて、
よく人の悪口を言う人間かどうかはわからない。
言ってるのを聞いていた人からしたら、
こんな話をしてること自体を、笑っているだろう。
でもね、けっこう本気で思うのだ、
悪口を言わない人になれたらいいなぁということはね。
なぜそう思うのか? そのほうが、かっこいいから。
逆に言えば、それが個性だ、それが売り物だとしても、
人の悪口を言ってる人というのは、
ぼくにとっては、やっぱり憧れられない存在なのだ。

手帳に書きつけるのでなく、このことを書いてしまった。
どうしよう、今日からまた「人の悪口を言わない」を、
スタートさせてみようかな‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
まったくねー、人の悪口を言う野郎は、バカヤロですよね。