藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

つながる資質。

日経プロムナードより。森田さんのはいつもイラストがかわいい。

転んでも転んでも立ち上がるしぶとさ。
それと同時に、立ち上がってもなお、いつでも転べる勇気と身軽さ。
そのどちらも失わないでいたいと心から思う。

つまりだ。

「いつ転んでも構わない」という覚悟だ。

そして

「いつ転ぶかもわからない動き」つまり積極的な行動だ。

そして

「転んでも転んでも立ち上がるしぶとさ」。

覚悟があり、臆することなくチャレンジし、失敗しても起き上がる。
どれかが欠けたら途切れてしまう。
でもこの三つだけあれば何かいろんなことができそうな気がする。

さあさあさあ。
自分は改めてこの三つを選びたいと思う。

転ぶ 森田真生
 iPhoneに標準でインストールされている「ヘルスケア」というアプリがあって、自分が歩いた距離や歩数が毎日記録されている。最近そのことを友人に聞いて、早速アプリを開いてみると、自分の歩行データが2年も前からびっしり記録されていた。中身を見ると、やはり先日の旅行中の数値が突出している。旅の間、平均して1日1万8千歩、12キロ以上歩いていたらしい。最高記録はウィーンにいた日で、3万9千歩、26キロも歩いた。

 ところで、これだけ歩いたにもかかわらず、私は旅先で一度も転ばなかったのである。それがどうしたと言われそうだが、転んでは起き、起きては転びながら歩く1歳5カ月の息子を見ていると、何十万歩も転ばずに歩くなんて、まるで奇跡のように思えるのだ。

 2013年の夏、アメリカのボストン・ダイナミクス社とDARPA(国防高等研究計画局)の共同で、2足歩行ロボット「アトラス」が公開された。その当時、DARPAの企画責任者を務めるギル・ブラット氏は、このロボットが「何度も転びながら歩く1歳児」の段階にあるとの見解を示した。昨年の2月、同じロボットの最新モデルが発表されて、荒地や傾斜路、雪の上でもバランスを取りながら、まるで本物の人間のように歩く姿が話題になった。

 少し前まで、山道や雪道を二足で歩くロボットなど夢のまた夢であった。なめらかな実験室の床でさえ、転ばずに歩くのは大変なのだ。ましてや、斜面もあれば、ぬかるみもあり、雨も降れば、車も行き交う現実の世界は、ロボットにとってあまりに過酷だ。

 1982年、アーティストのナム・ジュン・パイクは、ロボットを実験室から路上に連れ出し、史上初めて交通事故の犠牲になるロボットを見せるパフォーマンス作品を披露した。その頃はまだ、ロボットを「野生」に放つことが、それだけで批評性を持ち得る時代だったのである。

 いまやロボットは、歩行の能力において人間の柔軟さに迫りつつある。アトラスは、荒れた野生の大地の上でも、逞(たくま)しく歩き続ける。チェスで人間を倒して20年あまりが経(た)ったいま、ようやく、機械は人並みに歩けるようになりつつあるのだ。

 歩くことは、チェスを打ったり、数学の問題を解いたりすることに比べると目立たない種類の知性であるが、逆に、そうと意識する必要もないくらい、人間の身体に深くしみ込んだ能力なのである。

 何度も転び、そのたびにまた立つ。そうして試行錯誤をくり返しながら、私たちは歩くことを全身で体得してきた。転ぶたび、そして立つたびに、人の身体は賢くなっていくのだ。

 あっちへ走り、こっちへと駆け、ズデンと転んではぎゃあと泣きながら、子どもは身体の知性を鍛える。それに比べ、ちっとも転ばなくなってしまった自分は、どこか停滞しているのかもしれない。

 世界がひっくり返る無防備な転倒。ズデンと転んで、また立ち上がる。そうして世界は、日々新たに蘇(よみがえ)っていくのではなかったか。

 転んでも転んでも立ち上がるしぶとさ。それと同時に、立ち上がってもなお、いつでも転べる勇気と身軽さ。そのどちらも失わないでいたいと心から思う。

(独立研究者)