藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

知識×知識=へ

日経より。
記事中、野口さんは「知識は資本財から消費財へと変わりました」という。
確かに「知っていること」は今や消費になっている。
「知って溜め込んでいること」の優位性は無くなってしまった。

けれど「溜め込んでいる知識を混ぜ合わせて色々考える」という点にはまだ人間なりの不思議さがある。
将来はAIはそんな「不思議さとか偶然とか反証」までも再現するのかもしれないが、それってかなり「乱雑な」出来事だとも思う。

「溜め込むこと」が目的化していた時代は終わった。
けれど「溜め込んだものをごちゃ混ぜにして色々考える」というのは今の所まだ人間の持ち味だ。
「溜め込んでいる量で評価される時代」から「量ではない"掛け算"で何を思考できるか」という時代へ。

いろんな道具やネットを使いこなしながら、莫大な知識に触れて「さらにその先に何を見るか」ということがこれからの人間の役割らしい。

もともと「知っているか知らないか」というのってちょっと「力比べ」でしかない感じってありましたよねー。
それより、面白いことを考えよう。

「AIは生活を楽しくする」 野口悠紀雄さん

 人工知能(AI)が飛躍的に進歩し、人間の知的活動の多くをAIが代替する時代が来ようとしている。この先、人間はAIに比べ知的劣位に追いやられるのだろうか。だとすれば、人間が知識を保有する意味はどこにあるのだろうか。経済学者の野口悠紀雄さん(76)は「AIの進化は、人間が知識を持つことの意味を根本的に変える」とみる。

■使いこなすうえで、年齢は関係ない

 「AIはとんでもない技術と思っている人が多いですね。中には人間を支配すると警戒する人もいる。確かに高度な技術ではありますが、身構えることはありません。専門家だけでなく、我々が普通に使いこなすことができる。その意味で、すごい技術なんです」

 「産業革命の時代に肉体労働の多くが機械に代替された。人間は苦痛を伴う肉体労働から解放され、より人間らしい活動に集中することが可能になった。同じように知的活動においても、コンピューターにできることはコンピューターに任せ、人間は人間にしかできない作業により多くの時間をかけることができる。そう考えれば、AIを警戒する必要はまったくありません」

 「AIはすでに生活に入り込んでいます。例えば、音声入力です。スマートフォンスマホ)で、文章を吹き込むと、そのままテキストデータになる。私はほとんどこのやり方で原稿を書いています」

 「音声情報の中から意味を持つ内容を選別して選び出す。このパターン認識と呼ばれる能力が、AIを使うことで格段に進歩しました。例えば、『おいしいアップル』と入力すると、アップルパイの店やレシピを選んでくれます。単純に『アップル』というキーワードだけに反応しているだけではなく、形容詞との関係でその意味を理解しようとしている」

 AIというと、高齢者には縁遠いものと思われがち。だが、「思い込みにすぎない」と言う。音声入力をすればキーボードの操作はいらない。パソコンやスマホが苦手な高齢者でもできる。

 「文章を書く際の壁が低くなる。何もない白紙の状態から始めるのは大変です。音声入力で頭に浮かんだことを次々に吹き込む。文章は断片的なままでいい。後から手をいれればすむ。歩きながら、あるいは寝っ転がったまま、スマホに話しかければいい」

 「AIは自動車の自動運転にも活用されます。これだって、若い人よりもむしろ高齢者にメリットがある。『やっと来てくれましたね』という気持ちで、AIと向き合ったらいいのではないでしょうか」

■何かに役立てるのではなく、そのものを楽しむ

 「昔、『歩く百科事典と言われた人』がいましたね。しかし、こうした人は、ほとんど無用になりました。今は、知識がどこにあるかが重要です。インターネットのウェブのどこかにある。それを見つければいい。既にインターネットの登場でやみくもに知識を蓄えなくてもよくなりましたが、AIがパターン認識をできるようなったことで、流れは加速しました」

 「『資本財』としての知識から『消費財』としての知識へと、知識の位置づけが変わったのだと思います。何かをなし遂げるためではなく、楽しむための知識です。火星探査を考えてください。どう見てもコストが高すぎる。にもかかわらずやっている。何のためでしょうか。生命の起源を探るという目的のためとも考えられますが、むしろ、『生物がいるのか知りたい』という知的好奇心からきているのではないでしょうか」

 「資本財と消費財の関係をスポーツに例えてみましょう。私たちはなぜ、スポーツをするのか。プロのスポーツ選手にとって、スポーツは所得を得るための資本財ですが、多くの人はスポーツが楽しいからやっているのであり消費財です。知識についても同じことが言えます」

 AIが知的活動を代替してくれるなら、知識の習得に労力を注ぐ必要はないのか。

 「自動翻訳機が発達しても、外国語を勉強する必要はあります。ゲーテの『ファウスト』をドイツ語で読めることには価値があります。翻訳で読んだのでは真の理解は難しい。高校生の時ドイツ語を勉強しました。ただヘルマン・ヘッセを読みたかったからです。知識を持つことは必ずしも経済的利益を実現するわけではありませんが、人生を豊かにします」

 消費財としての知識を得る意味がもうひとつある。そこから「問い」が生まれるのだ。

 「ニュートンはリンゴがなぜ落ちるのか疑問を抱きました。しかし、AIはニュートンと同じような疑問を抱くことができるでしょうか。AIにあらゆる法則を学習させ、それと矛盾する現象を指摘させることは可能でしょう。しかし、疑問を抱き、問いを発する能力は、いまのところ持ち合わせていない」

 「AIが発達しても、人間が知的活動のすべてをAIに任せることにはならないでしょう。消費財としての知識の価値は、AIがいかに進歩したところで、減るわけではありません」

(シニア・エディター 大橋正也)

 ▼のぐち・ゆきお 1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業。64年大蔵省(現財務省)入省。一橋大学教授、東京大学教授などを経て、現在、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書に「情報の経済理論」「『超』整理法」「ブロックチェーン革命」など。