藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

道具と原理。


大好きな森田真生さんの記事より。

「機械で沸かしても手で沸かしても、できたお湯の熱さに変わりがないなら、楽しい方がいい」と言ったのは彫刻家のジャコメッティだが(後略)

さすが大芸術家ともなるということが糸井重里に似ている。
それはともかく。

数学においても、正しく使えることと、仕組みや原理がわかることの間には雲泥の差がある。数を操る方法を知り、四則演算などを身につけることは、生活のために必要だけれど、生活の便利を充(み)たすだけが数学ではない。数はどのように互いに関係し合うのか、そもそも数をどう定義すればよいか、自然数のほかにどんな数の世界があり得るか……。原理に遡って考えていけば、どこまでも問いが尽きることはない。

「使えることと原理がわかること」は別物である。
これだ。
武道の大家が「刀や槍を巧みに操ることそのものが武道ではない」というのとどこか似ていないだろうか。
年を取るとともにこういう話題が大好きになってきている自分。
(つづく)

「わかる」と「操る」 森田真生
 ちょっと目を離した隙に、息子がスマホを使って写真を撮ったり、動画を再生したりして遊んでいることがある。スマホは、写真データの記録や加工だけでなく、動画の再生やメールの送信など、あらゆる「計算」を実行できる機械だ。

 このような「万能」な計算機の理論的な可能性をはじめて明らかにしたのは、イギリスの数学者アラン・チューリングである。1936年に公開された論文のなかで彼は、いわゆる「万能チューリング機械」のアイディアをはじめて提示した。

 チューリングが構想した機械が、現実に動き出したのは1948年のことだ。マンチェスター大学で開発されたその機械には「ベビー」というあだ名がつけられた。大人の図体より大きな筐体(きょうたい)が7つも並ぶ「ベビー」は、その名に似合わず巨大であった。まさか本当の赤ちゃんが万能チューリング機械を片手で操る時代が来るとは、当時、誰にも想像できなかったに違いない。

 子どもはもちろん、スマホが作動する原理や技術的な詳細は知らない。仕組みがわからなくても正しく操れることは、洗練されたデザインの証左でもある。

 現代の暮らしは優れたデザインの便利な道具に彩られている。ボタン一つでお湯を沸かせるポット。スイッチ一つで室温をコントロールできるエアコン。仕組みや原理を深く考えなくても、望む結果だけは速やかに得られる。

 「機械で沸かしても手で沸かしても、できたお湯の熱さに変わりがないなら、楽しい方がいい」と言ったのは彫刻家のジャコメッティだが、水をくみ、鍋に入れ、それを火にかけて沸かす時間をじっくり楽しむ余裕が自分にあるかというと、自信がない。流れる時間を「楽しむ」よりも、費やす時間を減らしてくれる「楽」な方法ばかりを求めてしまう。身の回りには「仕組みはわからないが使えるもの」がどんどん増える。

 何かを使えるということと、何かを理解することの間には、本当は果てしない距離がある。理解しようとする辛抱をやめ、効果的に使うことばかりを求めていると、未知の他者に対する想像力や感受性は、知らず知らずのうちにやせ細っていく。

 数学においても、正しく使えることと、仕組みや原理がわかることの間には雲泥の差がある。数を操る方法を知り、四則演算などを身につけることは、生活のために必要だけれど、生活の便利を充(み)たすだけが数学ではない。数はどのように互いに関係し合うのか、そもそも数をどう定義すればよいか、自然数のほかにどんな数の世界があり得るか……。原理に遡って考えていけば、どこまでも問いが尽きることはない。

 「わかる」ことと「操る」ことは技術的には切り離すことができる。数について深く考えなくても、筆算の手続きを知っていれば、正しくそれを操ることができる。この切り離しを極限まで進めていけば、コンピュータの世界に辿(たど)り着く。コンピュータは、数の意味など少しもわからなくても、どんな人間よりも正確に、素早くそれを操ってしまう。

 効果的に操るだけが知性なら、機械が人間を超える日も近いだろう。逆に、「わかる」という経験の深みを耕していくなら、そこにはまだまだ、生きた人間の知的フロンティアが隠されているはずなのである。

(独立研究者)