藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

当事者意識を持つこと。そして企らまぬこと。

日経より。
*[次の世代に]出世の極意。
ひとつ分かったのが、特定の人脈と早くからくっついたりせず、自分の仕事を淡々と着実にこなしている人間が、結果的には出世しているということです。自分の仕事をきちんとすることが基本であることは、どこにいても同じなのです。

あまり大企業にいたことがないので、つい気がつかないのが「出世」だ。

そのクローズドな世界の中で、ひたすら上昇しようとする姿は相対性がなく、ある意味気味が悪い。
しかも「そういう価値観しか知らない組織」にいたら、"刷り込み"がされて、「世の中とはそういうもんだ」という尺度が自分の中に生まれてしまう。
一生この尺度を引きずって生きていくのは不幸なことではないだろうか。
自分の仕事に対しては、いろんな評価をする人がいて、消費者、仕入先、下請け、同僚、上司、家族と「いろんな人が見ているのだ」ということを知っていることが、結果自分を最も伸ばしていく秘訣に違いない。

くれぐれも「阿(おもね)り」には注意だ。

 
「とにかく戻ってきてくれ」で転職決意
2019年2月1日 21:30
 1994年。セイコーエプソンの英国法人で働いていたが、当時社長だった父親の要請を受けてひかり味噌に入社した。
英国に駐在していた最後の二年ほどは、父親から「とにかく戻ってきてくれ」と毎日のように電話がかかってきました。親を見捨てるわけにはいかないという気持ちになり、転職を決意しました。理由はそれにつきます。
1987年からひかり味噌の社長を務めていた父・善八郎氏(右)と
私の大学卒業時点では、父親は自分の弟に会社を継がせたいという意識で、「次は息子」という気持ちではなかったと思います。それが変わった理由は聞いていませんが、ある程度、経営が軌道に乗ってきたことが大きく影響していると思います。私のエプソン在職時の後半のあたりからは大手スーパーとの取引がだいぶ増え、会社らしく大きく成長し始めていました。
父親は取引先との関係で、経営に対する考え方などの面で尊敬できる人との交友関係に恵まれていました。その人たちから「息子さんを早く呼びなさいよ」と言われ、私を早く説得して会社に入れようと考えるようになったのかなとも思います。
ひかり味噌に入る2年ほど前、祖父が他界しました。当時は英国にいたので死に目には会えませんでしたが、南アフリカへの出張予定を急きょ変更し、自分でその日の飛行機を予約して日本へ帰ったんです。
諏訪に戻り、葬儀に立ち会いました。今にしてみると「ちょっと仕組まれたかな」という感もなきにしもあらずなのですが、お寺での葬儀が全て終わり、挨拶をする場面がありました。私は何となくその場の雰囲気におされて大勢の親族の前で「戻ります」と言ってしまったんです。それが「動かぬ証拠」になりました。
私がエプソンに入ってから、祖父は私の父親に「善博が戻ってきて会社を継ぐべきだ」と言っていたというのも事実のようです。祖父が持っていたひかり味噌の株式の一部を直接、私に贈与したと後で聞かされました。
 他社、他業界での勤務経験のおかげで、見えてくるものがある。
全く違うふたつの経験ができたと、今もよく考えています。しかし、エプソンのような大会社の一員として働くのも、ひかり味噌を経営するのも、ほんとに真剣に仕事をして、売り上げや利益を増やそうとするなら、どちらも同じくらい大変だというのが、今の紛れもない心境なんです。
ひとつ分かったのが、特定の人脈と早くからくっついたりせず、自分の仕事を淡々と着実にこなしている人間が、結果的には出世しているということです。自分の仕事をきちんとすることが基本であることは、どこにいても同じなのです。
海外のスペシャリストとなり、日本に戻ることもなく現法を渡り歩くという人事パターンが各社にあることも知りました。エプソンに残ったとしても、ずっと海外だけというのはまずいなとも思っていました。
(三科清一郎)